おいしい水にわれはなりたや雲の峰 (『雨の樹』)
今号のらん詠のテーマは「水」だが、清水径子さんには印象的な水の句が多い。掲句のちょっとあとには、次の一句が出てくる。
墓洗ふ水がおいしくなりたれば
私はこの二句をついついセットで考えてしまうのだが、さまざまな変身譚や変身願望のうずまく径子俳句の中でも「おいしい水」は、径子さんのポエジーの本質を端的に象徴しているように思われる。
おいしい水とはどんな水だろう。
幾世紀もの長い時間をかけて流れて地下水となって流れてきた水が、どこか知らない山奥の草むらにふっと湧きでる。そして、草の香を溶け込ませ、やがてちょろちょろと走り出して小石や土の味をも溶け込ませながら流れつつ、濃密さを増していく。あるときはキリリと冷たく引き締まり、あるときは甘くまろやかであり、ときに濁りつつもやがて必ず透明さを取戻し、その清冽さを決して失わない。そして生物の全身にしみわたって、存在そのものを形づくる。死者を思いつつ墓を洗うのに、それほどふさわしい水はないだろう。雲の峰を仰ぎながらそんな水を思うとき、生者と死者はひとつながりに繋がっている。そこに、水を求めて得られず死んでいった人々への鎮魂もあるといっては言いすぎだろうか。
第二句集『哀湖』にはこんな句がある。
わが墓が立つたり水のうまき春
径子さんの水が墓と結びついているのは、故のないことではないだろう。径子さんにとって墓はなつかしい死者そのもののであり、そのなつかしい存在に届くのは「おいしい水」だけなのだ。
『哀湖』の刊行が昭和五十六年だから、径子さんが自宅の近くのお寺に自分の墓をたてたのは、六十代後半のことだろう。雑木林の片隅の愛らしい墓に径子さんは深い安堵を覚えたように思われる。室生犀星は墓をたて墓を洗うのは死者のためではなく、生者のための悲しくも美しい営みだと語ったけれど、おいしい水は、墓をやさしく濡らし、やがて墓石に静かにしみ込んでいくようだ。
水澄んでゐるから汽車に乗りたがる 『雨の樹』
水はノスタルジーの謂いでもあった。
(『らん47号』09.10.10)