3・11以降、「みちのく」は私たちにとって特別の時空へと転化したと感じる。リアス式海岸は別名「溺れ谷」ともいうそうだが、3・11以後にこの言葉はいっそう重く響く。「みちのくの淋代の浜若布寄す 山口青邨」……たとえばこの句は、これから先「3・11」をイメージすることなしに読まれることがあるだろうか。いまやどんな言葉も 「3・11」の前で細かく震えている。
その震えの波動が私をこんな句の前に連れて行き、「みちのく」がある質感をもってせり上がってきた。
山清水魂冷ゆるまで掬びけり 臼田亜浪
火の山にたましひ冷ゆるまで遊ぶ 野見山明鳥
これらの句から塚本邦雄の
馬を洗はば馬のたましひ冱ゆるまで人戀はば人あやむる
こころ」(『感幻樂』)
が呼び出される。「冷ゆる」と「冱ゆる」がからまりあいながら、魂をまるで実態のあるもののようにありありと感じさせる。これらの句や歌に場所は特定されていないのだが、魂の冷える感じ、冴える感じが私を「みちのく」の奥処へポクポクと運んで行く。
そして、こんな想念に突き当たった。みちのくの魂の冷たさを馬の胴に手を当てるようにありありと感じたのは、実は山川蟬夫だったのではないか。
多彩な多行形式の俳句作品を生み出した高柳重信は、一行直立の俳句を書くときには「山川蟬夫」の俳号を用いた。高柳本人は「すでに俳句形式が知りつくしている幾つかの技術を組み合わせただけで、即刻に吐き出すような作品を、必要あって発表するとき、もっぱら、この筆名が使用される」とにべもなく言い放っているが、画家がさらっと描いたデッサンから丹念に描きこんだタブローにはない画家の肉声のようなものが聞こえてくるように、山川蟬夫の一行書きの作品からは作者の別の一面が立ち上がってくるような気がする。
山川蟬夫句集にはみちのくの幽霊が揺曳している。
足生えて足が疲れる秋の幽霊
みちのくも幽霊も秋闌けにけり
これが君なるか払暁の泣き幽霊
点鬼簿の夕顔朝顔昼顔よ
東北やむかし出会ひし子持ち幽霊
淋しい幽霊いくつも壁を抜けるなり
幽霊も鬱なるか傘さして立つ
こうして並べてみると、「みちのく=東北」は、泣き幽霊や子持ち幽霊たちが人恋しさにたたずんでいる場所、淋しさにいくつも壁を抜けることをくり返す、そんな場所なのだと思われてくる。
重信、いや蟬夫はどうしてこんなにも「みちのくの幽霊」にこだわったのだろうか。長いこと不思議だったが、蟬夫の幽霊は芭蕉の『おくのほそ道』から喚起されたものではなかったかと思ったとき、何か胸に落ちてくるものがあった。M・M氏の「らん」五五号の十七句の中に「ゆうれいのYOUに会いたくて壁抜ける」の一句があるが、芭蕉は「ゆうれいのYOUに会いたくて」、「みちのくへ」と赴いたのかもしれない。そして蟬夫はそのことを時空を越えて感じ取ったのだ。
津波と原発事故に見舞われた一帯、白河、須賀川、三春、福島、桑折、白石、仙台、女川、松島、塩釜……これらの地名はそのまま、『おくのほそ道』の芭蕉の旅に重なる。もともと芭蕉の旅は歌枕、すなわち先人の足跡をたどる旅であったが、同時に冷害や飢饉、そして津波などの犠牲となった死者の声に耳を傾ける旅であったといってもいいだろう。
そんなみちのくの旅路に点々と咲く花がある。
かさねとは八重撫子の名成べし 會良
卯の花をかざしに関の晴着かな 會良
世の人の見付けぬ花や軒の栗
まゆはきを俤にして紅粉の花
これらを予兆のようにして裏日本に抜け、出会ったのが象潟の西施の面影であり、市振の遊女である。
芭蕉は「松島は笑うがごとく、象潟はうらむがごとし。寂しさに悲しみをくはえて、地勢魂をなやますに似たり」と記し、
象潟や雨に西施がねぶの花
と詠んだ。西施は薪売りの娘だったが、その美貌ゆえに呉王夫差(ふさ)に献上される。寵愛を受けたがそのために国が傾くと生きたまま長江に投げ入れられたという。
さらに市振では、
一家に遊女もねたり萩と月
と、伊勢参りのために同宿した遊女を句に呼び込んでいる。この遊女ことは、
「『行衛しらぬ旅路のうさ、あまり覚束なう悲しく侍れば、見えがくれにも御跡をしたひ侍ん。衣の上の御情に、大慈のめぐミをたれて、結縁せさせ給へ』と泪を落とす。不便の事にハ侍れども、『我ゝは所ゝにてとゞまる方おほし。只人の行くにまかせて行べし。神明の加護かならず恙なかるべし』と云捨て出でつゝ、哀さしばらくやまざりけり」
裏日本にたどりついた芭蕉のおくの細道は、ここにいたり西施を媒介にして無数の遊行する女たちの旅路と交錯した。
柳田國男は「巫女考」の中で、歩行巫(あるきみこ)の存在に触れている。神社の居つきの巫女とは別に口寄せなどを行うことを生業としている流浪の巫女である。
「関東・奥羽の諸国では、祈禱及び託言を職とする歩行巫を弘くまたモリコとも呼んでいた」「百年余り以前の紀行に、羽前の温海でこれを浜の姥といい、羽後の汐越でこれを髪長と称し、また陸奥の佐井浜で多古と呼んだとある(真澄遊覧記)。これらはともに巫女の名前として似つかわしい」
芭蕉は市振の遊女に、そんな流浪の巫女のおもかげをみたのではないだろうか。
歩行巫たちはつねに秘密の箱を携帯している。
「神はこの箱の中に坐すのである。(略)寝ても起きても神の側を離れぬのである。(略)およそ世の中にこれほど神と近接している女がほかにあろうか」
柳田は「巫が娼を兼ねる慣習は決して日本ばかりの例ではないが、これと反対に娼女のもと巫であったということはやや証明がしにくい」とも述べているが、巫と娼は「女性性」の象徴としてわかちがたく存在している。遊女とは遊行の女であろう。
そして、これらの歩行巫、遊女たちこそ蟬夫のみちのくの幽霊、点鬼簿の昼顔夕顔朝顔たちに他ならなかった。幽霊は現実と非現実を往来するだけでなく、対幻想の現在と過去をつなぐ橋として山川蟬夫の俳句に呼び込まれた装置でもあった。
すでに残夢の夢の揚羽の無念の死
みちのくは蟬夫にとって、「夢の揚羽の無念の死」の降り積もる場所であったのだ。
遠眼鏡//けなげに/巫女を舞はしめて(『蒙塵』) ※『おくの細道』の引用は久富哲雄著『おくのほそ道全訳注』(講談社学術文庫)より。
(『らん56号』12.1.10)