記憶の海へ

――皆川燈・俳句Site
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背中の神

島だった日も舟だった日も雪もよい

山茶花や背中の神がかさこそす

紅葉して湖底へつづくひづめ跡

ちぎって投げたらいのちになったコスモス忌

秋天にさらけだされし兄妹

冬すみれ琴座の奥へつる伸ばし

乳母車から四、五人降りる野菊道


(『らん56号』12.1.10)
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一句鑑賞「霜」

霜柱ちひさき踵(かかと)の神とゆく  水野真由美

 小さな神の手を引いて都落ちしていく巫女めいた一人の女が浮かんでくる。神の小さな踵が霜柱を踏む。そのかそけき音……女は神の足の赴くままに歩いていく。
 「霜柱まことちひさき柱かな」も作者の句。霜柱の林の先に訪う村が見えるようだ。私も小さくなって霜の国を神とともに歩いているような気がしてくる。


(『らん56号』12.1.10)
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山川蟬夫の幽霊

 3・11以降、「みちのく」は私たちにとって特別の時空へと転化したと感じる。リアス式海岸は別名「溺れ谷」ともいうそうだが、3・11以後にこの言葉はいっそう重く響く。「みちのくの淋代の浜若布寄す 山口青邨」……たとえばこの句は、これから先「3・11」をイメージすることなしに読まれることがあるだろうか。いまやどんな言葉も 「3・11」の前で細かく震えている。
 その震えの波動が私をこんな句の前に連れて行き、「みちのく」がある質感をもってせり上がってきた。

  山清水魂冷ゆるまで掬びけり    臼田亜浪
  火の山にたましひ冷ゆるまで遊ぶ 野見山明鳥

 これらの句から塚本邦雄の

  馬を洗はば馬のたましひ冱ゆるまで人戀はば人あやむる
  こころ」(『感幻樂』)

が呼び出される。「冷ゆる」と「冱ゆる」がからまりあいながら、魂をまるで実態のあるもののようにありありと感じさせる。これらの句や歌に場所は特定されていないのだが、魂の冷える感じ、冴える感じが私を「みちのく」の奥処へポクポクと運んで行く。
 そして、こんな想念に突き当たった。みちのくの魂の冷たさを馬の胴に手を当てるようにありありと感じたのは、実は山川蟬夫だったのではないか。 
 多彩な多行形式の俳句作品を生み出した高柳重信は、一行直立の俳句を書くときには「山川蟬夫」の俳号を用いた。高柳本人は「すでに俳句形式が知りつくしている幾つかの技術を組み合わせただけで、即刻に吐き出すような作品を、必要あって発表するとき、もっぱら、この筆名が使用される」とにべもなく言い放っているが、画家がさらっと描いたデッサンから丹念に描きこんだタブローにはない画家の肉声のようなものが聞こえてくるように、山川蟬夫の一行書きの作品からは作者の別の一面が立ち上がってくるような気がする。
 山川蟬夫句集にはみちのくの幽霊が揺曳している。

  足生えて足が疲れる秋の幽霊
  みちのくも幽霊も秋闌けにけり
  これが君なるか払暁の泣き幽霊
  点鬼簿の夕顔朝顔昼顔よ
  東北やむかし出会ひし子持ち幽霊
  淋しい幽霊いくつも壁を抜けるなり
  幽霊も鬱なるか傘さして立つ

 こうして並べてみると、「みちのく=東北」は、泣き幽霊や子持ち幽霊たちが人恋しさにたたずんでいる場所、淋しさにいくつも壁を抜けることをくり返す、そんな場所なのだと思われてくる。
 重信、いや蟬夫はどうしてこんなにも「みちのくの幽霊」にこだわったのだろうか。長いこと不思議だったが、蟬夫の幽霊は芭蕉の『おくのほそ道』から喚起されたものではなかったかと思ったとき、何か胸に落ちてくるものがあった。M・M氏の「らん」五五号の十七句の中に「ゆうれいのYOUに会いたくて壁抜ける」の一句があるが、芭蕉は「ゆうれいのYOUに会いたくて」、「みちのくへ」と赴いたのかもしれない。そして蟬夫はそのことを時空を越えて感じ取ったのだ。
 津波と原発事故に見舞われた一帯、白河、須賀川、三春、福島、桑折、白石、仙台、女川、松島、塩釜……これらの地名はそのまま、『おくのほそ道』の芭蕉の旅に重なる。もともと芭蕉の旅は歌枕、すなわち先人の足跡をたどる旅であったが、同時に冷害や飢饉、そして津波などの犠牲となった死者の声に耳を傾ける旅であったといってもいいだろう。
 そんなみちのくの旅路に点々と咲く花がある。

  かさねとは八重撫子の名成べし  會良
  卯の花をかざしに関の晴着かな  會良
  世の人の見付けぬ花や軒の栗
  まゆはきを俤にして紅粉の花

 これらを予兆のようにして裏日本に抜け、出会ったのが象潟の西施の面影であり、市振の遊女である。
 芭蕉は「松島は笑うがごとく、象潟はうらむがごとし。寂しさに悲しみをくはえて、地勢魂をなやますに似たり」と記し、
  
  象潟や雨に西施がねぶの花

と詠んだ。西施は薪売りの娘だったが、その美貌ゆえに呉王夫差(ふさ)に献上される。寵愛を受けたがそのために国が傾くと生きたまま長江に投げ入れられたという。
 さらに市振では、

  一家に遊女もねたり萩と月

と、伊勢参りのために同宿した遊女を句に呼び込んでいる。この遊女ことは、
 「『行衛しらぬ旅路のうさ、あまり覚束なう悲しく侍れば、見えがくれにも御跡をしたひ侍ん。衣の上の御情に、大慈のめぐミをたれて、結縁せさせ給へ』と泪を落とす。不便の事にハ侍れども、『我ゝは所ゝにてとゞまる方おほし。只人の行くにまかせて行べし。神明の加護かならず恙なかるべし』と云捨て出でつゝ、哀さしばらくやまざりけり」
 裏日本にたどりついた芭蕉のおくの細道は、ここにいたり西施を媒介にして無数の遊行する女たちの旅路と交錯した。
 柳田國男は「巫女考」の中で、歩行巫(あるきみこ)の存在に触れている。神社の居つきの巫女とは別に口寄せなどを行うことを生業としている流浪の巫女である。

 「関東・奥羽の諸国では、祈禱及び託言を職とする歩行巫を弘くまたモリコとも呼んでいた」「百年余り以前の紀行に、羽前の温海でこれを浜の姥といい、羽後の汐越でこれを髪長と称し、また陸奥の佐井浜で多古と呼んだとある(真澄遊覧記)。これらはともに巫女の名前として似つかわしい」

 芭蕉は市振の遊女に、そんな流浪の巫女のおもかげをみたのではないだろうか。
 歩行巫たちはつねに秘密の箱を携帯している。

 「神はこの箱の中に坐すのである。(略)寝ても起きても神の側を離れぬのである。(略)およそ世の中にこれほど神と近接している女がほかにあろうか」
 
 柳田は「巫が娼を兼ねる慣習は決して日本ばかりの例ではないが、これと反対に娼女のもと巫であったということはやや証明がしにくい」とも述べているが、巫と娼は「女性性」の象徴としてわかちがたく存在している。遊女とは遊行の女であろう。
 そして、これらの歩行巫、遊女たちこそ蟬夫のみちのくの幽霊、点鬼簿の昼顔夕顔朝顔たちに他ならなかった。幽霊は現実と非現実を往来するだけでなく、対幻想の現在と過去をつなぐ橋として山川蟬夫の俳句に呼び込まれた装置でもあった。

  すでに残夢の夢の揚羽の無念の死

 みちのくは蟬夫にとって、「夢の揚羽の無念の死」の降り積もる場所であったのだ。

  遠眼鏡//けなげに/巫女を舞はしめて(『蒙塵』)
                               

   
   ※『おくの細道』の引用は久富哲雄著『おくのほそ道全訳注』(講談社学術文庫)より。

(『らん56号』12.1.10)
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雨の樹のほうへ 18

雨粒も小餅も春へまつしぐら (『夢殻』)

 小さな丸い物たちの、なんとも言えず愛らしい感じに打たれる。しかも春を待つのでなく、こちらから春に向かっていくのである。そのまっしぐらなひたむきさに打たれる。液体の雨粒とちょっと固い小餅の組合せも心憎い。

  餅膨れつつ美しき虚空かな    耕衣
  瞑らねばみえぬもの在り鏡餅  枇杷男

 これらは餅を詠みつつ、見えないものを幻視しているが、径子の餅は餅そのもの。径子的アニミズムとでも呼びたい森羅万象の捉え方である。
 雨粒ついでに書いておくと、以前に径子さんから聞いた話だが、中尾寿美子さんが琴座に投句した際、掲載時に耕衣に直されていて驚いたのが次の句だそうだ。

  前 きさらぎの雨粒なんの蕾なる
  後 きさらぎの雨粒なんと蕾なる

 俳句が一文字によって変わる不思議さを思うばかりである。
 寿美子の雨粒は蕾へと美しい変身を遂げたが、径子の雨粒は小餅という友達を連れて、はずんでいる。小餅は一人暮らしの小さなお供えの餅だろうか。あるいはお雑煮にいれる丸餅だろうか。いずれにしても、餅のはらむ民俗的な本意さえもがにじみ出ているような気がする。
 無機物にいのちを吹き込んで精霊のように変化させるのは径子俳句の真骨頂である。

  ふろしきがゆるみて桃の匂ひせり
  菫のように泪もろくて雨合羽
  椿よと呼ばれていたい水溜り
  薄氷に聞こゆるらしきじゆうしまつ(以上『夢殻』)

 切れているように詠むこともできるだろうが、ここは「ふろしき」や「雨合羽」や「水溜り」や「薄氷」の気持ちを読み取ったほうが断然面白い。
 まだまだある。「煮凝りはみてゐる形而上的に」「羽二重餅押せば笑ひを噛みころす」「目が合へる一瞬に露仕上がりぬ 」……句集『夢殻』は物に命を吹き込む錬金術的技法によって編まれた、精霊たちの跋扈するワンダーランドである。巻頭と掉尾の二句はそのことを私たちに告げるべく周到に配置されている。

  擂鉢にいかな睡蓮現はれむ
  鶴来るか夕空美しくしてゐる

                  
(『らん56号』12.1.10)
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三千世界

しんしんと桃太らせて母は窓

父と歩めばここらいつしか合歓あかり

胎内に取り残されて胡桃割る

虫籠の闇はこぼさぬように運ぶ

三千世界かな幻想の花ざかりかな

そんなことをすれば金魚が死んでしまう

禁猟区午後の胞子が飛びたつよ

夕かなかな鏡の奥のひとりひとり

夏果ての電子辞書より鳥の声

星月夜産みたての子に再会す

(『塵風 第4号』11.12.15)
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以後の夏ラプソディ

山椒の葉食べつくしたけどまだ成れぬ飛び立つことは奇跡なのだな
以後の土から透きとおる花茗荷

丘の上で以後も変らぬ街見たら何かせずにはいられなかった
百日紅つぎつぎ点し通過中

表から裏へ行くのは苦しくていつも谷底を眺めてばかり
山野いきいき幽明はふかみどり

むかし夜汽車の窓を横切る雨脚をおれの人生だとおもったことも
水滴が水滴つれて往く晩夏

シャンパンとシェリーがよおく冷えている百歳になるその日を待って
玉手箱あければ草の種つやつや

しがみつくには暗い門だった窓から歌は聞えていたが
空蝉のからっぽ父が見て母が見て

小さき手で握りしめたる水鉄砲まだ入口は出口と知らず
ビーナスが寝転んでいる秋の岸

三人のたまのようなるみどりごを起承転とは名づけてみたが
弟のダリアやさしき色したる

トイレまでいく道中は百合ひらき柱時計がボーンボン
仏間ならはばたいてみる水蜜桃

白シャツの若き叔父立つ崖っぷち蝶なら先へ行けるのだけど
草深き父の書斎は魂泊り

裏庭の金魚は消えて隣国のホームの池を泳ぎけるかも
故郷はひとひかぎりの野萓草

もう二度と山には棲めぬだがしかしサザンテラスの杉の香りが
いなびかり突き刺す遠野ものがたり

一本道を行くとき父が先頭でしんがりは母であった花野よ
裏山の藪萓草を誰も知らず

フェンネルの種摘むときにイタリアの崖の小道が指先に来る
死ねば死もなし青蚊帳は風はらみ

湖の始まりはこの滾々と盛り上がりたる小さな泉
三匹の馬うつうつと秋を食む

釣堀の水が濃くなる夏夕べ花火づくりは詩づくりに似
涙よく湧く言の葉の片蔭り

わらわらと母親たちが緑陰を抜け出て歩行巫女となりゆく
縄文の甕にまきつく愁思かな

(『らん55号』11.10.10)
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Happyness Island

 私のつとめている会社で、福島在住の読者のために茅野市と協力して福島第一原発の事故以後、外で遊ぶこともままならない福島の子どもたちに白樺湖の夏休みを一週間プレゼントした。
 四週間で約八百人をご招待し、社員が交代でバスに添乗したり、子どもたちとボール投げや虫取りをしたり、蕎麦打ちに興じたりした。
 私はわずか三日間のお手伝いだったが、お母さんやおばあちゃんたちから事故以後の生活の大変さをいろいろとお聞きした。夏が来てもマスクに長袖長ズボンで通学させるしかないこと。地元福島の野菜を子どもに食べさせられないというジレンマ。放射能で汚染された土地でこれからも暮らしていかざるを得ない人たちの苦衷を思うと言葉もなかった。 
 放射能は目に見えない。可視化する手立ては唯一、大気中や食物の放射線量を測ること。しかし可視化できたからといって、どこまで安全なのか誰にもわからないのだ。
 まずなすべきは直ちに「脱原発」へと舵を切ることなのに、どうしてそれができないのだろう。安全を確認できたものから再稼動していくなんて、冗談じゃないと思う。
 福島出身の映像作家、今泉文子さんがこの春に撮った三春の滝桜の映像作品を見た。次第に開花していく滝桜の映像に、「福島―Happyness Island」の文字が重なって、やるせなかった。


(『らん55号』11.10.10)
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嵯峨根鈴子句集『ファウルボール』・一句鑑賞

 雁帰る浅川マキの黒髪を

 浅川マキをよく聞いたのは七〇年代から八〇年代にかけてだった。私はとくに「さかみち」という歌が好きだった。「わたしが住んでるアパートは……坂の途中にある」と歌は始まる。「私」はアパートに帰る坂の途中で灯りの点った自分の部屋の窓を見て足を止める。そしてつぶやく。「私にはわかっていた……あれは消し忘れだってね」。掲句を読んでいると、浅川マキの、あの囁くような歌声が、記憶のかなたからしみ出してくる。浅川マキの黒髪は漆黒の夜空となって、帰る雁を北の国へ、あの時代へと導いていくようだ。昔の日本人は極北の地に雁たちの故郷があると信じていたという。掲句にはそんな慕わしい「北」の故郷が、まるで母系をさかのぼる旅のように暗示されている。
 そんな旅の道しるべのような句が嵯峨根さんの句集のそこここに置かれている。

  その朝の雪待つやうに小鳥網
  島へ行く船に乗り込む巣箱かな
  家々に小さき井のあり春まつり

 小鳥網も巣箱も井もなんと懐かしい物語を奏でていることだろう。
  

(『らん55号』11.10.10)
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雨の樹のほうへ 17

 月見草われは掌ひらきけり  (『哀湖』)

 径子さんの第二句集のタイトル名は『哀湖』。情感を深々とたたえたなんと美しい造語であろう。各章のタイトルは「晴」「雨」「霜」「雪」と名づけられている。径子さんが心をゆさぶられる自然の変化を、この四文字は実に端的に表しているように思われる。
 掲句は「晴」の部に置かれている。晴といってもこんなあえかな灯りなのだ。「掌」といえば、耕衣の「てのひらといふばけものや天の川」が思い浮かぶ。「ばけもの」には意表をつかれるが、閉じて開いたときに現れる掌は、見入れば見入るほど不思議な地図を描いている。そこから岬のように伸びている五本の指も、まじまじと見れば呪具めいているではないか。私たちの生命細胞そのものが一つの宇宙であると解剖学者の三木成夫は語っているが、掌を覗き込むと、そこには渦巻きつつ遠ざかる天の川が見えてくる。
 耕衣の句に比べると、径子の掌からは馥郁とした時間があふれてくるようだ。
 月見草からの呼びかけに呼応して径子は掌をひらく、まるで花がひらくように。掌をひらくことは身体がひらくこと。身体が咲くとは心がひらいて受信体勢が整うこと。掌をひらいたときから月見草との交感が始まる。
 掲句のそばには、こんな一句も置かれている。

  掌を妃と思ふ秋螢

 どこにもいけぬ月見草を哀れと思った径子さんは、月見草を秋の螢へと変身させたのかもしれない。
 ひらいた掌にやってきた螢は、掌を妃と思ったのだという。ただの女ではなく「妃」であるところにこの句を読み解く鍵がある。貴種流離譚のひそみにならえば、秋螢は山野を流離する妃を見つけたのだ。
 掌はこのようにまるで宇宙ほどに広い場所なのだ。衆生のすむ世界をお釈迦様のてのひらにたとえた比喩は、身体における掌の本質に迫っていると思う。

  てのひらにある肉親の花すみれ     『鶸』
  てのひらをひらけば雪のはやく降る
  てのひらで見るあふとつや秋の暮   『夢殻』

「てのひら」で森羅万象や死者たちと交信していた径子さんが浮かんでくる。私も今夜そっと掌をひらいてみよう。


(『らん55号』11.10.10)
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清水径子の俳句を想う

 八月のある朝、マンションの階段を降りていくと、大きな塩辛トンボとばったり出会った。「あ、径子さんだ」とすぐわかった。

  お変りなく然ししほからとんぼかな  径子
               
 まさにそんな出会い。「然し」だが「しほからとんぼ」だからこそ、いとおしいのだ。
 平成五(1993)年二月、横浜市の径子さん宅で始まった「らんの会」(第二次)の句会に参加して初めて径子さんと親しく話をかわすようになった。当時、径子さんは八十二歳だったが、とてもお元気で「らんの会」を誰よりも楽しみにしていた。ほぼ毎月一回、一人暮しだった径子さんが体調を崩して最後の入院をされるまでの約十年、それは続いた。雑木林の葉ずれの音があふれていたあの句会こそ、わが心のアルカディアである。
 十(1998)年二月に季刊俳句同人誌「らん」を創刊したとき、径子さんは巻頭エッセイに「冬青空」というタイトルをつけている。それほど気にいっていた冬青空の青で装われた全句集が完成したのは、十七(2005)年二月。手渡すとはにかみつつもとても喜んでくれた。そして、その年の十月に旅立っていった。
全句集に収められた四冊の句集のあとがきを読むと、径子さんの俳句への思いがふかぶかと伝わってくる。
 「ただ〈俳句は短い〉ということをからだで知るため懸命だつたことはたしかで、それがいつの間にか歳月の詠嘆となりました」(第一句集『鶸』)
 「〈「鶯が鳴けば聞くは」であればよい〉(耕衣)と、欲得なく私自身を十七字に生みおとす面白さを、いよいよ示唆されつつある」(第二句集『哀湖』)
 「内に何物かを秘めながらしづかに『そこにある』というのは俳句ではないのか」(第三句集『夢殻』)
 「俳句という詩の中に、美しい五体を持つ人間が居るという事は、俳句のもろもろの論理に優先する」(第四句集『雨の樹』)
 第一句集『鶸』を出したのは昭和四十八(1973)年、六十二歳のときである。よく知られているように、秋元不死男はこの序において、径子俳句の本質を「嘆きの詩性」「知の果てにある嘆き」と看破しているが、「知の果て」こそ径子作品を読み解くキーワードではないだろうか。 
 径子さんは新興俳句に強く引かれながら「この道を通らなかった」として「思えば私は恋情のように季語に執着していたのかもしれぬ」「季語は、俳句と詩の国境かもしれぬ。国境を越えた俳句は現代詩に近づいたが、俳句のもつ土俗性という厚みを忘れた」(「らん」十二号)と述べている。  
 俳句における土俗性を径子さんは「詩」の原郷ととらえていたのではないだろうか。それは「俳句という詩の中に、美しい五体を持つ人間が居るという事」、そのリアリティを醸成するものであり、耕衣が季語をあえて「季霊」と呼び変えたように、知の戻り道に水色野菊を咲かせる言葉の力のことであると……。
 ともに句会を重ねるうちに、私の中で径子さんの作品は馥郁とした肉体感覚で迫ってくるようになった。平成六(1994)年六月に発行された第三句集『夢殻』の最後の数ページから第四句集『雨の樹』には、私が「らんの会」の句会でライブで出会って驚愕した句がたっぷりと収められている。

  慟哭のすべてを蛍草といふ 
  われは草死ねばこの家のほうき草
  鶴来るか夕空美しくしてゐる
                (以上『夢殻』)

 季語が俳句の中でこのように使われているのをみたのは初めてだった。いま当時のノートを引っ張り出してみると、「暗喩でつかむ」という径子さんの言葉が書きとめられている。
 このことはまた、過ぎ去った過去、懐かしい死者、もの言わぬ動植物たちを生き生きと呼び出して交感する場所として俳句はあるのだということでもあった。径子俳句においては、季語は死者を呼び出す呪具のように俳句の中に呼び込まれているのではないかとしばしば思わされた。

  弟に白梅わたす夢の中       『鶸』
  てのひらをひらけば雪のはやく降る
  草の上に居ながら秋になる螢    『哀湖』
  いぶかしき日没ぞ桃とどきけり
  雨粒も小餅も春へまつしぐら    『夢殻』
  みんな来い来い凄涼(せいりょう)夏欅
  目に青葉溢れて飯をこぼしたり   『雨の樹』
  春の月窓を離るるときが来し

 四冊の句集から思いつくままに引いたが、季語への恋情は死者との通路を切り開くためのエネルギーであり、それはそのまま「暗喩でつかむ」ということと見事につながっていることをこれらの作品は告げている。径子さん独自の詩法は、有季定型の遵守といった次元の話とはまったく異なる位相にあった。
 径子さんが亡くなった翌年二月に「らん」三二号で追悼特集を組んだが、その折に頂戴した原稿の中でいちばん印象深かったのが、故・坂戸淳夫さんの文章だった。
 径子さんは自筆年譜の大正七年の項で、「七月、母三十六歳で病没、垣根に白朝顔咲く」と記している。坂戸さんはその記述に足をとめ、『雨の樹』以後の作品から、

  言葉は一つ友よと呼べり白朝顔
  朝顔の白い元気をもらひたし

この二句を引き、「この句を書いたときの清水径子さんのことを痛切に思う。径子さんのココロの目には、あの七歳の夏に刻みつけた、あの白い朝顔の花が、亡くなった母の面影とともに、美しく蘇ったにちがいない、と」と述べている。まったく同感であり、さらに言えば、白い朝顔そのものが「母」だったのだと思う。それが清水径子の俳句であった。


(『俳句界』11年10月号)

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