記憶の海へ

――皆川燈・俳句Site
<< November 2018 | 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23 24 25 26 27 28 29 30 >>

【書評】正木ゆう子 著                             『猫のためいき鵜の寝言 十七音の内と外』                     ―「図書新聞」18.12.1号

 本書は西日本新聞に二〇一八年五月から七月まで土日をのぞく毎日、十週連続で掲載されたコラムをまとめた一冊である。
 ほぼ毎日八〇〇字の文章を一〇週にわたって書くという作業はなかなかしんどいことではないかと思うが、「週一回ならば一年かかる回数を、二か月半で書くことは、大変どころか、思わぬ楽しさだった。」と著者は記す。
「そういう書き方のエッセイは、どこか俳句と似ている。普通なら素通りするような何でもないことを言葉にするのが俳句ならば、短いエッセイも、誰にも起こっている普通のことを掬いあげて書くのである。」(あとがき)
 そんな著者の心楽しさが横溢する弾みのある文章と、末尾に置かれた俳句の絶妙な交響にたちまち引きこまれた。
二階の仕事場と一階の台所を行き来する日常、夫と車で出かける旅、飛行機での故郷熊本との往来……著者の日々のそこここから俳句が湧き出している。文末に置かれている俳句にはすでに句集でお目にかかっているのだが、そうか、こういうことだったのかと新たに出会い直すような楽しみも本書の魅力だ。
 著者も六〇代半ばにさしかかり両親や親しい人々との別れがつづく。降り積もる淋しさを俳句が受け止める。熊本市健軍町は著者の故郷だが、「健軍町行き」の項では、「人に伝わってこその俳句だが、これは伝わらないだろうな、それでもいい、と思って作る句がたまにある」と著者は明かす。「どこか奥深い急所に触れて、なかなか忘れることができなかった」想念も、「俳句にすれば、あっさりと片付けることができるのである。/十七音の俳句という小さな箱に入れ、ラベルを貼って棚に仕舞う。思いはもう私のものであって私のものでなく、棚に並べて眺めることができる。/こんなときの俳句は、まるで作り手が俳句に助けを求めているようなものである。」
そして、次の一句が最後を締めくくる。

  根の国へ最終市電春灯

 伝わらなくてもいいと思って作った一句かもしれないが、エッセイを読み一句を読むと、同世代の私もまた「最終市電の灯」が遠ざかっていくのをじっと見送りながら、ずいぶんはるかな場所まで連れていかれたような気がした。文章だけだったら、こうはいかないにちがいない。
 著者は「たった一度すれ違った人、一羽の鳥、過ぎった思い。微かなそれらを、俳句とともに書き留めてみたい」と書く。微かなものの中には蝶がいる。石がいる。風が、蛸壺が……しかし、やがてそれは酵母や漢字の文字や納豆にまで飛び火。読みながら意表をつかれ、思わず噴き出したりしているうちに、深まっていく日々は哀しく淋しいだけでなく、暖かく懐かしいものであることが心に染みてくる。
 さしたる変化もなく繰り返される日常のいったいどこから詩を汲み上げて俳句に凝縮させるか。俳句を書く人なら、さりげないエッセイを通じて著者が俳句創作の秘策を惜しげもなくさらけだしてくれていると感じるかもしれない。「忘れられないときは、俳句にする」。しかし「忘れようとして詠んだのに、句にしたせいで」いっそう鮮やかに刻印される。それが俳句だ。だから、あの一瞬を俳句にしておくだけで、鮮やかに手繰り寄せられるのだ。3・11以降、著者は福島や熊本などの小学校で俳句教室を開いてきた。その授業風景が三回にわたって描写されているが、ある雨の日の授業のときに思いついたという「心の中を見てみよう」などはまさに著者の面目躍如。小学生たちと懸命に向かい合う著者から、俳句への愛がほとばしっている。
 はるかな宇宙との魂の交感は著者の俳句の魅力であるが、本書の掉尾「星糞峠」は石器時代の黒曜石の鏃にふれてこんな文章で締めくくられている。
「遺伝子の螺旋を辿って自分の奥深くへ分け入ってみれば、その頃の痕跡が残っているだろうか。螺旋の奥の遥かな太古に、私は私の裡で辿り着きたい。」
 かつて著者が「〈今〉は私の存在そのものであり、厳密に言えば私の命のことであった」(『十七音の履歴書』)と記していたことを思い出す。「私は私の裡で辿り着きたい」という一文から著者の万感の思いを手渡されたような気がした。
 そして、最後の一句は、「地に星糞天に星糞去年今年」。
「星」と「糞」の二つの文字のギャップに心をときめかせる著者のお茶目な一面は、「猫のためいき鵜の寝言」という本書の楽しいタイトルにも表れている。表紙や扉を飾る少女は著者の化身かもしれない。

(春秋社刊・18.10.17 四六判 144頁 本体1700円)
俳句をめぐって | permalink | comments(0) | -

抒情のゲノム

郭公啼けば三千世界水ぐむよ

紫陽花の枯れて始まる物語

つるばらつるばら追憶はアンダンテ

透明に咲き出るこの世は真昼

白南風が抒情のゲノムずたずたに

稲妻の突き刺すホテルカリフォルニア

船が出る夕焼の奥へジパングへ

花芙蓉媼ら明日にまどろみぬ

短夜や吊るされ揺れて哭いている

未草揺れる辺りで上陸せよ

らん詠「無」
頭蓋骨の眼窩は無心浜昼顔


(「らん 83号」18.10.20)
『舟歌』以後 | permalink | comments(0) | -

一句鑑賞「秋の雨」

雨ふれば雨ふる黄泉か菊膾
       中尾壽美子

 雨が降る。世界が雨音に満ちる。秋になったのだ。過ぎてゆく時間の裏側に、パラレルワールドのように黄泉が透けて見えてくる。一句を「菊膾」で言いとめたとき、花びらを食べるという人の営みの憐れさが改めて浮上してくるようだ。昔、夫の母に教えてもらって、菊膾をはじめて自分でつくった。菊は薄紫色の「もってのほか」。シャキシャキと繊細な歯ごたえとほのかな香りに感激した。
「きつね雨黄泉にも春のあるらしき」は掲句と同じ第四句集『舞童台』の句。壽美子はいつも黄泉の消息に心を傾けていた。


(「らん 83号」18.10.20)
俳句をめぐって | permalink | comments(0) | -

雨の樹のほうへ 45

雨脚やひとりひとりの秋いかが (『夢殻』)

 同人の水天氏よりメールが飛来した。曰く「三鷹の水中書店で中尾壽美子の『狩立』を入手しました」。
ホ、ホント? 中尾さんの句集はその一冊だけ持っていなかった。まだ、古本屋に出てくることがあるのだなあ。ちょっぴりくやしいけど、仲間がゲットしてくれたことはありがたい。さっそく貸してくださったので、いま読み進めているところである。実に刺激的な句に満ちている。昭和四四年発行のこの第二句集は壽美子の転回点となったのではないかと思う。
 壽美子は径子より五歳年下で三四年に「氷海」に同人参加している。ここで二人は出会ったのであろう。壽美子が『狩立』で三七年に発行した第一句集『天沼』の世界から大きくジャンプできたのは、二人の関係も大きく影響しているのではないだろうか。
 平成一七年に清水径子の全句集を編んだとき、できれば盟友である中尾壽美子の全句集もつくれたらと思ったが、なかなか実現に移せないままいたずらに時が過ぎた。どこかでその企てがすすんでいることをひそかに願うのみである。
 個々の句集はますます入手困難な現在、がんばって径子全句集をまとめておいてよかったとつくづく思う。刷り部数は三〇〇部だったと思うが、先ごろまで在庫の問い合わせがあり、ついに完売となった。 
径子の全句集の巻末に収められた鳴戸奈菜の「刊行のことば」の中にこんな一節がある。
「小学校に入学する前後に両親を喪い、二十二歳のとき結婚するが離婚、その四年後、二人の弟のうち年の近い信太郎の他界に会うなど、家族運には恵まれなかったが、径子さんは、まるでその替わりのように俳句を肉親、或いは恋人として日々を暮らしてきたように、私の目には映っている」
本当にそうだった。俳句を通して生者はもちろん、死者たちとも親しく交信していた。掲句の「秋いかが」には、黄泉に暮らす壽美子への問い掛けももちろん含まれているだろう。

  仲良しがゐる槇の枝に寒雀  壽美子(『狩立』
  雨あしのみるみる真葛原となり  (『舞童台』)

 掲句の隣に、壽美子のこんな句をおいてみると、真葛原を通り抜けて一人ぼっちで秋に立った径子の淋しさと人懐かしさが染みてくる。

(「らん 83号」18.10.20)
雨の樹のほうへ | permalink | comments(0) | -

桜の実

つぎつぎに白鳥帰る父の窓

北欧の風船となり売られおり

ゆらゆらと空に緋の咲く鯉浄土

人類絶え世界犯しゆく黄の菖蒲

五月雨墓地は迷路と知りし日の

緑の夜ララのテーマの蓋をあけ

昼月の溶けるあたりへ豆の蔓

上布てごわしどこまでも風はらみ

桜の実黒く実りて黒くつぶれ

マトリックス崩れつづける万緑

らん詠「使」
使わぬ部屋の使わぬ鏡カフカの忌

(『らん 82号』18.7.20)
『舟歌』以後 | permalink | comments(0) | -

耕衣一句鑑賞――『吹毛集』を読む

籠の目を雑木と思ひ頬白は

 いつだったか、清水径子の自宅で開かれた句会で、径子から教えられた一句である。話の経緯は忘れたが、「籠の目を雑木と思」う頬白には、囚われの身の哀れさではなくて、どこか滑稽で剽軽な命の懐かしさのようなものが漂っていると径子は話していた。それ以来、私にとって忘れられない一句となった。
 ひがな一日、籠の中で止まり木を行ったり来たり、餌をついばんだり、囀ったりしながら、頬白はふと遠くを見る。この囚われの場所をわが天地と思い知るときにはじめて、美や自由は見果てぬ夢としてやってくるのだ。雑木は山林へ、そして自由の天地へと広がっていく。空へと羽ばたけぬ翼は、それゆえにもっと広い無窮の空を得た。五十代半ばとなった耕衣は、縁側の鳥籠をかたわらで頬白とともに視線を遠くにのばしているようだ。
 籠の目を雑木と思う頬白に仮託して耕衣は、生き物の命の有限さと、それゆえの眼差しのあたたかさを伝えたかったのではないだろうか。籠はそのとき、非情な檻であるいっぽうで、命を包むやさしい器でもあったのだ。人間も鳥籠の頬白とさして変わらない夢を見、生を生きていることを、この一句は懐かしく描き出している。    

(『らん 82号』18.7.20)
俳句をめぐって | permalink | comments(0) | -

雨の樹のほうへ 44

虹顕つと知らず羅着てたてり (『哀湖』)

 径子の第二句集『哀湖』は、七十歳のときに上梓された。第一句集『鶸』刊行から十年、径子の六十代が詰まった一冊である。
 私も同じ年代の半ばを過ぎ、一句一句が身に染みてくるようだ。あとがきのこんな一節がいまの私に径子の肉声として迫ってくる。
 「(略)古いノートを整理していて感じたことは、遂にうろうろとさまよう私というもう一人の人間に出会った気羞かしさであり、それを如実に示す俳句という十七文字へのおそれであった。内面界の裂け目をほんの少し覗いたにすぎぬこの集を、それでも開板にふみきったのは、残り少ない時間を、生きながらまだ死なぬための私自身への励ましの手段に過ぎない」 
 俳句は径子にとって「内面界の裂け目を覗く」ために存在した。私自身、なんのために俳句を書き続けているのかと自問するとき、径子のこの言葉は霧中の道標のように思われる。径子がこのように俳句と向き合い生涯手放さなかったことこそが、何物にもかえがたい励ましである。
 厳しい内面凝視を血肉の通ったやわらかい言葉で言いとめたとき、五七五や季語は融通無碍の時空を現出させた。
 掲句は「羅」を着る心のときめきを言いとめると同時に、「虹顕つと知らず」に心の微妙な屈託も描出されている。虹の美しさに見惚れるよりも大事なことがあったのだ。こうした径子の心情を、「羅」は見事に体現しているだろう。
 羅はかろやかで繊細だが、びっくりするくらい強靭でもあることは、羅に触れてまとってみればわかる。私は昨年骨董市でもとめた宮古上布を洗い張りに出し、いま必死で自分サイズに仕立て直している。今号が出来上がる頃には多分着られるはずだ。もとの着物は小柄な私が着るにしてもかなり小さかった。いったい、どんな人が織り、どんな人が着たのだろうか。織り手がその布を自らまとうことはめったにない。一枚の着物にこめられた女たちのさまざまな思いが指の先から伝わってきて、ひと針たりともおろそかにできないと思うばかりだ。
 俳句も似たようなものかもしれない。この古い詩型は、どこまでも美しく手強い。

(『らん 82号』18.7.20)
雨の樹のほうへ | permalink | comments(0) | -

貝 釦

目裏の夜汽車は永遠に雪野ゆく

冬麗のガラスの森のガラスの花

少年来る吹雪の夜を日を橋を

雪の戸をそっと叩けばおかえり

生みたての銀河と思う薄氷

エリアンの首にマフラー巻いてあげる

人参を花型に抜く夕闇も

水仙の光あふるる開かずの間

春の岸明けゆく遺書の飛びたてる

ぼたん雪いもうとの名はキム・ヨジョン

紅梅の蕾みつつ空かきならす

野遊びに来ているははのははのはは

永き日の杼(シャトル)とばして聖マリア

初蝶に生国問えば薊の葉

春寒のトライアングルは孤独

天の花咲かせてジャワ更紗ぬくし

絹糸を縒ればてのひらはさくら

春立つと土にひとつぶ貝釦

烏兎怱怱いちごは舌でそっとつぶす

ふり向けば春こんこんと血脈

らん詠「新」
新約聖書(しんやく)を閉ず囀りはたえまなし 

(『らん 81号』18.4.20)
『舟歌』以後 | permalink | comments(0) | -

如月の結婚式

 二月に結婚式に参列した。親族の結婚式としては十年以上前の従妹の結婚式以来である。夫の兄の娘、義理の姪は四十歳を少し過ぎ、地道な婚活の末に出会った二歳年下の伴侶と並んで「若く見えるでしょ」と笑っていた。ウェディングドレスがとてもよく似合っていた。
 会場は相手の実家のある長岡市で、私は去年姑から譲り受けた留袖を自分で着ることにしてホテルに持ち込んだ。秋田在住の姑は一〇一歳。元気ではあるが長岡は遠い。雪も深い。参列はむずかしいので、留袖だけでも参加させてあげようと思ったのである。
 古い留袖は比翼も胴裏もかなり黄ばんでいたが、着物教室の仲間が比翼の黄ばみが目立たないようにと金銀の刺繍入りの半襟を借してくれた。ついでに帯、帯揚げ、帯締め、扇子も持ってきてくれた。当日は金糸銀糸の重たい帯を結ぶのに苦戦したが、きれいに着つけのすんでいた花嫁の母が汗だくで手伝ってくれた。
 遠い昔、親たちがお膳立てしてくれた秋田の神社の座敷で「結婚式なんてしなくていいのに」と思いながら、鬘の重さに耐えて座っていた自分を思い出した。友人からの祝電を今でも覚えている。
「人生が美しいものであることを二人で確かめ合ってください」
 それから五十年近くが過ぎた。どうだったんだろうな、私の人生。

  留袖の松に金糸の春告鳥 燈

(『らん 81号』18.4.20)
エッセイ | permalink | comments(0) | -

フモールとイロニー[海上晴安さんを偲んで]

 海上晴安さんは、旧琴座の同人として、第二号(一九九八年七月発行)から「らん」に参加された、いわば最古参のメンバーだった。私は海上さんの俳句に接するたびに、背後から耕衣の笑顔が浮かび上がってくるように感じたものだ。琴座時代に耕衣との間で交わされた俳句を巡る往還は、耕衣なきあとも、「らん」という場を借りて海上さんの心の中でしずかに熱くつづいていたのだと思われてならない。
 井上有一をリスペクトする書家たちのグループ展、「天作会」に作品を発表され、「心の花」で短歌を「東京四季」で詩を発表しつづけておられた。書道展には足を運んだことがあったが、短歌や詩の活動もなさっていたことを亡くなって初めて知った。
 「らん」七六号のエッセイに、五歳のときに都電の事故で片足をなくされたが成人してからはそれを跳ね返すようにボディビルに目覚めオペラを歌うようになったと書いておられる。幼年時の不慮の事故はその後の海上さんの人生に大変な影を落としたに違いないが、ボディビルやオペラのくだりに触れ楽しくなってしまった。そんな海上さんだから、晩年にご病気を得てしばらく休詠されたが見事に復活された。次第に容体も安定され、お元気になられると思っていた矢先の訃報だった。
 創刊当時の「らん」を何冊か繙いてみた。当時は毎号全員でテーマを定めて短文を俳句の下に掲載していたが、海上さんのエッセイは三鬼あり、草城あり、またトーマス・マンあり、サルトルあり、スタンダールありと多彩であ る。
 フモールとイロニーは海上さんの終生のテーマだった。五十嵐さんに五十号以降から五十句をまとめていただいたので、ここに「らん」草創期の海上さんの数句を上げてささやかな哀悼としたい。 

  花見時パクリと開くニヒリズム   (二号)
  純粋理性とは卵立つこと春立てり  (五号)
  青嵐立原道造も道も        (六号)
  無花果に喰はれたる夢真昼中    (八号)
  ほくそ笑む手毬春風馬堤曲     (九号)
  はつなつの雲に存在見―つけた   (十号)


(『らん 81号』18.4.20)
俳句をめぐって | permalink | comments(0) | -