記憶の海へ

――皆川燈・俳句Site
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雨の樹のほうへ 41

生の直後水色野菊かな (『雨の樹』)

 去る六月に亡くなられた金子彩さんと清水径子は一九一一(明治四四)年生まれの同い年だった。径子が亡くなったのは二〇〇四年、彩さんが「らん」の同人に加わってくださったのは二〇〇七年。二人が「らん」で出会うことはなかったが、径子なきあと、同い年の彩さんが「らん」に立ちよってくださったことに不思議な符合を感じる。
 二人の俳句世界はことなるが、死に近い最晩年の日々を、転生や変身によって俳句に呼び込みつつ、自らの美学へと昇華させようとしたエネルギーには似通ったところがあったかもしれない。彩さんは「転生をやめて春満月へ歩き出す(「らん」73号)」「転生三度目の脂百合ですよ」(「らん」76号)……こんな転生の句を残した。「転生三度目の脂百合」には一〇六歳という心身への万感がこもっているだろう。
 径子の「野菊」の句からは、耕衣の次のような野菊の句が浮かび上がってくる。

  蹴り伏せて野菊水色なる故郷  (『吹毛集』)
  夢みて老いて色塗れば野菊である (『惡靈』)

 掲句は径子最後の第四句集『雨の樹』に収められている一句だが、野菊の句は第一句集『鶸』から登場している。

  野菊流れつつ生ひ立ちを考ふる(『鶸』)
  流れより野菊を拾ふめぐりあひ(『哀湖』)

 耕衣の描く野菊は、野菊の咲き乱れる魂の故郷を象徴している。それは「野菊道数個の我の別れ行く」(『闌位』)や「荒野菊身の穴穴に挿して行く」(『冷位』)なども同様である。
 いっぽう、径子の野菊は自らを投影した、いわば自画像と読める。掲句は「転生の直後」という時間の切り取り方がユニークである。直後は水色だがその後次第に色が変わっていくのか、あるいは水色野菊から別物になっていくのか、わからない。いずれにしても「転生直後」の「水色野菊」には耕衣への熱い思いと同時に、「老い」を脱ぎ去る初々しい命への希求がこめられている。

  露なんぞ可愛ゆきものが野に満つる 『雨の樹』
  鵜と遊びわれも胸張るこころもち    
  たましひの色まだ薄きもも畑      

 こんな瑞々しい句を滴らせつつ、径子の晩年の日々はすぎていった。耕衣、径子、彩さんの遺した「晩年」は俳句の膂力をつきつけてくる。

(『らん 79号』17.10.10)
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雨の樹のほうへ 40

目の見えぬ魚がみひらきゐる晩春 (『鶸』)

 前回は径子の句にある「芍薬忌」は多佳子の忌日ではないかと書いたが、多佳子との天狼を通じての縁とは別に、径子は鷹女の句に惹かれていたのではないかと思う。鷹女の句の感覚的な把握や美意識の肉体化は、径子が俳句で目指さんとする知の抒情化を触発しかきたてるものだったにちがいない。
『白骨』は鷹女の第三句集である。径子逝去の翌二〇〇六年、「らん」三二号で追悼特集を組んだとき、その冒頭に「氷海」の昭和二八年六月号に掲載された、径子の『白骨』評を再録した。「『女のかなしさ』などー『白骨』を読みて」と題されたこの一文は、鷹女に宛てた手紙のスタイルで鷹女から『白骨』を贈られたことへの謝辞から書き始められている。『白骨』は昭和二七年三月に発行されている。
 実は昭和二七年に鷹女から径子に贈られた『白骨』は、径子の遺品の一冊としていま私の手元にある。中扉には、鷹女の自筆で「ねこやなぎ女の一生野火のごと」と記されている。やさしい墨跡は、句の激しさとはうらはらなたおやかさだ。
 径子は集中の「うちかけを被て冬の蛾は飛べませぬ」「馬ほどの蟋蟀となり鳴きつのる」「鞦韆は漕ぐべし愛は奪ふべし」などをはじめとした様々な句を挙げて、鷹女に「先生は遂に、その高いロマン主義を基調とした抒情を、知性的な把握によつて昇華させる、そういふ足跡をお残しなさつた方だと私は思ひます」と熱く語りかける。
 さらに「先生はたへず自己と自然の中に青春を見てゐられるといふことを深く深く感じたのでござゐます」と述べ、「私の内に湧いた勇気とよろこびの一端をお伝へ出来ればうれしうございます」としめくくる。
 径子の第一句集『鶸』には昭和四七年までの句が収められている。俳句を発表しはじめた昭和二十年代後半から四十年までの二十年間の句は厳選されて全体の一割、約六十句強にとどまっているが、出発点の径子の句には、鷹女の句から与えられた勇気に背中を押されたとでもいうべき作品が多いのではないだろうか。
 掲句はそのうちの一句で、径子の自画像だろう。魚は見えぬ目をみひらき、晩春の只中で夏の気配を察知する。自己と自然の中に「青春」を見ているのだ。

  雪積んで一丁の斧しづまれり
  寒卵撫でてやるその一つ割る
  地虫鳴く目の中くらくあたたかし

などの斬新な切り口は、以後の径子の作品の推進力となっていく。俳句の短さは二人にとって、ともすれば過剰に反応してしまう自らの詩魂をせきとめるかっこうの器であったのかもしれない。

(『らん 78号』17.7.10)
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雨の樹のほうへ 39

俤のまた吹きすさぶ芍薬忌 (『雨の樹』)

 私自身は忌日季語を織り込んだ俳句をつくったことあまりないが、忌日が季語として歳時記に取り込まれたのはいつごろからなのだろうか。島田牙城氏は「週刊俳句」(2013.12.1)に寄せた「『忌』とは何か」で、忌日が季語として定着していったのは、子規の死後、虚子らその仲間たちが毎年、命日に子規を偲ぶ句を詠みつぎ「子規忌」という季語が生まれたことが発端ではないかと述べている。当初は直接面識のある敬愛する人の忌日で句を詠むことだっただろうが、それはやがて芭蕉忌や鬼貫忌、太宰忌のように、過去の文学者を偲ぶよすがとして句に取り込まれるようになっていったのだろう。芭蕉忌を時雨忌、太宰忌を桜桃忌というように、別名を持つ忌日もある。亡くなった季節の季語が付与されたネーミングは、色濃くその日を印象づける。
 「忌」という言葉を俳句でどう生かすかだが、あらかじめ歳時記に収められた忌日季語とは別に、自身の俳句の中でどうしても詠みたい死者、あるいは出来事を自身で悼み、また思い返し、再び思いを新たにする縁として忌を創造すればいいのはないだろうか。
 そのいい例が掲句ではないかと思う。「芍薬忌」は歳時記には載っていない。実は他日、月犬氏から掲句の「芍薬忌」は誰の句か知っているかと聞かれて口ごもってしまった。そのときまで漠然と「芍薬」という花自身の忌と思っていたのだ。しかし俤である。芍薬である。これは、径子に縁のある美しい女性の忌にちがいない。
 思い当たる俳人の忌日を調べてみた。中尾壽美子が亡くなったのは一〇月だから対象外。三橋鷹女の命日は四月七日、多佳子の命日は五月二九日。季語の芍薬は初夏に分類されているが、四月では早すぎる。華やかなイメージからも多佳子にちがいない。多佳子は不死男や三鬼ともに誓子の「天狼」を支えた中心メンバーである。径子は昭和二四年、姉、阿喜の夫である不死男の「氷海」創刊を契機に俳句を始める。全句集の自筆年譜によれば、昭和二六年の項に「名古屋の『天狼』三周年記念大会に出席。会場で加藤かけい先生、帰りの車中で永田耕衣、西東三鬼の両先生と同席したのも何かの機縁であろう。同夜、橋本多佳子先生邸に一泊、橋本美代子さん、津田清子さんを交えての歓談忘れ難い」と記されている。昭和二六年、径子四十歳、多佳子五二歳。「また吹きすさぶ」に出会いと歳月への哀惜がにじむ。

(『らん 77号』17.4.10) 
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雨の樹のほうへ 38

最鳥渡る衣縫ふ鳥も居りぬべし (『夢殻』)

 昨年の一月から四ヵ月間、吉祥寺の着付け教室に通った。着物はほとんど持っていないし、母も着物を着る人ではなかったのだが、私はずっと着物に心惹かれてきた。まとうと全身がすっぽり覆われてはっとするような変化が起こる。襟の重なり具合、帯と帯揚げや帯締めの色の響き合い……改まった席に着ていく余所行きではなく、日常的に普段着として着物暮らしをしてみたかった。四ヵ月後、やっと怖がらずに着物や帯にさわれるようになった。それだけでもうれしい。着付け教室へと背中を押してくれた友人が亡くなったお母さんの残した着物や帯を、会社の後輩は亡くなった伯母さんの着物を体型が似ているからとプレゼントしてくれた。着付けを始めたと報告したら、田舎の叔母からも着てくれたらうれしいと着物と帯が送られてきた。はるかな母系が滔々と押し寄せてきて、さわさわと私を包むようだ。
 径子の俳句に着物にまつわるものはあるだろうかと句集を繰っていて改めて出会い直したのが、七四号の本欄で取り上げた「淋しき鳥春着一枚干しにけり」(『哀湖』)である。そのときは「春着」を漠然と春に着る服と思い込んでいたのだが、ふと歳時記を引いてみて驚いた。「春着」は新年の季語で「正月に着る晴れ着のこと」とあるではないか(私が思っていた春の服は「春服」という季語として控えていた)。例句もたっぷり並んでいる。晴れがましい句やほほえましい句が並ぶのに引きかえ、径子の春着のなんというはるけさ。春着は径子の全身を包み込んで新年の無聊を一日覆い隠してくれた。帰りついて脱いだ着物を吊り下げて風を通す。
 そのとき、何もかも脱ぎ捨ててすっかり軽くなった身体は、もはや一羽の鳥のようだ。
 この「淋しき鳥」は、径子の自画像としてさまざまな変奏曲を奏でていった。掲句の「衣縫ふ鳥」を書いたとき、径子の膝の上にはいつまでも縫い上がらない幻想の絹の袷が広げられていたのではないだろうか。
 皮切りは第一句集『鶸』に登場する「寒凪やはるかな鳥のやうにひとり」だったかもしれない。それは「淋しき鳥」を経て、『夢殻』所収の、掲句や「板の間を飛べない鳥としてきさらぎ」「春深し鳥のそら音をわれはしぬ」へとリレーされていった。
 着物を着たり脱いだりしていると、私も淋しい鳥の末裔のように思われてくる。遅まきの着物との出会いが径子との距離を近づけてくれた。


(『らん 76号』17.1.10)
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雨の樹のほうへ 37

糞ころがし笑つて居れぬ手を貸しぬ (『雨の樹』)

 最近、正津勉の『乞食路通』を読んだ。この本は路通と芭蕉の魂の通交を描くものだが、私は路通を清水径子の一文によって知った。「らん」五号に掲載されたもので、琵琶湖畔での芭蕉と路通の出会いが、物語風につづられた一風変わったエッセイだ。路通は蕉門人に嫌われ、芭蕉のもとを去っていくが、「気になる人である」と一文は結ばれている。
 私にとっても、それ以来路通は気になる存在だったが、ときどきふと思い出すのみで時間が流れた。『乞食路通』との出会いは径子との再会のように思われた。この本の副題は「風狂の俳諧師」である。「風狂」とは、辞書によれば、「風雅に徹すること」「常軌を逸すること」とある。では風雅とは何かというと、「詩歌・文章の道。文芸」、また「蕉門で、俳諧を言う」とある。なにか堂々巡りの感があるが、煎じ詰めれば、風雅=俳諧に徹するとは、常軌を逸脱する、すなわち世間の規範の外に出るとでもいうことになるだろうか。芭蕉は何度も旅に出たが、さまざまなしがらみを断ち切れず、ついに風狂を生ききれなかった。根っからのホームレス、乞食坊主の路通の人生は風狂そのものだったと正津勉は語る。
 径子はさきの文章で路通の一句、

  鳥共も寝入つてゐるか余呉の海

を引いている。径子はこの句が好きだったにちがいない。風狂の俳諧師とは、自然に共振する詩人である。動物や草木に同類として心を寄せることが自然にできてしまう人である。どちらかと言えば、人よりも自然の生き物のほうが好きな人たちかもしれない。
掲句を初めて句会で目にしたとき、「糞ころがし」に驚き、「手を貸しぬ」に驚いた。そういえば径子にはこんな句もあった。

  檻の狸とまんじゆう頒つ老いたれば  『鶸』
 
 径子は風狂などどこ吹く風だったかもしれないが、これらの句を見ると、風狂の俳諧師、路通と俳句の心は通底していたように思われる。石段の上の、雲に乗っかったような可愛らしい小さな家を舟として、一人、雲海を旅していたのかもしれない。

(『らん 75号』16.10.10)
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雨の樹のほうへ 36

桃のスープ人はやさしきことをする (『夢殻』)

 送っていただいた「鬣」五八号の林桂氏の追悼文で、昨年一二月に阿部鬼九男氏が亡くなられたことを知った。「らん」三二号の径子の追悼特集を開き、寄せていただいた阿部氏の文章を久々に再読した。『まるでシャドーワークのような』というタイトルはいまも新鮮に迫ってくる。「身辺を、はらりと払うと、それが俳句になった。かといって、境涯俳句なんてもんじゃあない。(略)誤解をおそれずにいうなら、貴重なシャドーワークのような世界を俳句のなかで示してきた人のようにも思う」と氏は述べる。
「シャドーワーク」はイリイチの造語で家事労働など暮らしに不可欠欠でありながら報酬を受けない労働をさすと辞書にはあるが、ここで言うシャドーワークのような世界とは、実生活に張り付いている影法師のような、虚というよりはもう少し人間くさい有情の世界をさすのではないだろうか。姿は見えないがまぎれもなくそばにいる生き物の気配や死者たちの話し声、ものたちのもらすため息……私たちの暮らしの背後にたしかに存在する世界を繊細にたぐりよせる径子の手さばきが阿部氏には見えていたのだろう。
 阿部氏は三鬼や不死男と親交が深かったようなので、径子とのつながりもそこから生まれたものではないかと思うが、詳細はわからない。
 この一文は、「ところで、句集中に、ぼくのことを扱って下さった句もあるが、それはヒミツ、そっと大切に保管中だ」と締めくくられている。実は掲句がその一句である。大切なヒミツを明らかにすることを、きっと氏は許してくださるだろう。阿部氏は料理上手で、氏のお手製の桃のスープをご馳走になったことがあったのだそうだ。それはいつのことだったのか、どんな味だったのか、ちゃんと聞いておけばよかっと悔やまれる。
 一度だけ阿部氏にお会いした。たしか救仁郷由美子さんに連れられて鳴戸さんらと数名で径子宅の句会の帰りに阿部氏のお宅に押し掛けたのだったと思う。高階のベランダの向こうに夜景が広がり、東京タワーがよく見えた。居間の壁に重信の「明日は/胸に咲く/血の華の/よひどれし/蕾 かな」の扁額がかかっていた。近くの中華料理店でご馳走になったとき、阿部氏が香菜の一皿を追加注文されたのが忘れがたい。二〇年以上前のことである。

(『らん 74号』16.7.10)
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雨の樹のほうへ 35

淋しき鳥春着一枚干しにけり (『雨の樹』)

 掲句は清水径子の第二句集『哀湖』巻頭の一句である。『哀湖』は一九八一(昭和五六)年、俳句研究新社より刊行された。あとがきの最後に、当時「俳句研究」の編集長だった高柳重信への謝辞が述べられているから、句集刊行にあたって、二人に何らかの接触があったことはまちがいないだろう。
 ところで、この句集は、制作年順に四章立てになっていて、各章のタイトルは順に「晴」「雨」「霜」「雪」と名づけられている。シンプルで魅力的なタイトルの付け方だなと思っていたが、最近、『高柳重信の一〇〇句を読む』(澤好摩著、飯塚書店刊)を読んでいて、「おやっ」と思った。重信『「罪囚植民地』の章立てが、「晴」「曇」「雨」「風」「雪」であることが記されていたからだ。
『罪囚植民地』巻頭の「電柱の/キの字の/平野/灯ともし頃」は、私には特別の一句である。二十年ほど前、らんの仲間で印旛沼に出かけたことがあった。そのとき、帰りの車窓から田園風景を眺めていた径子が、ふっとこの句をつぶやいて、重信の俳句であることを教えてくれたのである。重信にそのような句があることを知らなかった私は、「キの字」の強烈さを脳裏に刻みつけたのだった。
 澤氏は一〇〇句の中で、どのようにこの句を採り上げているだろうかと前出の書をひもといたのであるが、これまで『罪囚植民地』の章立てについてはうっかり見逃していた。
不死男も耕衣も重信とは浅からぬ因縁があったことを思えば、『哀湖』に重信の深いまなざしが注がれていて何の不思議もない。
 ―径子さん、『哀湖』とはいいタイトルですね。
 ―哀湖は私だけに見える湖なの。愛や死という人間の哀歓を底に沈めて深く紺を湛えた湖。それはどこかに永遠にあるの。
 ―僕は『罪囚植民地』を編んだとき、人が火のごとく人の心を焼くなら、氷のように人の心を焼きたいと思ったんです。いささか涙にうるみすぎた節々がありますがね。そこで章立てはいっそ、シンプルに刻印しようと思ったんですよ。
 ―なるほど、では『哀湖』の章立ては罪囚植民地からいただこうかしら。
 七〇歳の径子と五八歳の重信にこんなやりとりがあったのでは。二人の句集のあとがきから想像して私は一人楽しんだ。

(『らん 73号』16.4.10)
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雨の樹のほうへ 34

枯れはじまる頃からうじて美し (『雨の樹』)

 清水径子が二〇〇五年十月に亡くなってから、全句集をひもときつつ一句を鑑賞して今号で三四回を数える。径子の俳句そのものともいえる、雨粒をたっぷり湛えた〈雨の樹〉のほうへと少しずつ歩をすすめてきたが、どれだけ近づけただろうか。
最後の句集となった『雨の樹』を出したとき、径子は九十歳となっていた。掲句を、当時私は最晩年にたたずむ径子がふともらしたつぶやきのようにとらえていた。「からうじて美し」にこめた径子の万感の思いを少しも汲み取っ
ていなかったと思う。
 十一月の冷たい雨の降る午後だった。家に帰る途中でブロック塀からはみ出すようにして冬菊が咲いていた。臙脂色の花はもう枯れかかっていたが、雨に濡れた菊ははっとするほど美しかった。そのとき、掲句が頭をよぎった。そうなのだ。菊はいつだって冬になれば枯れて、そんな風情を見せていたにちがいない。なのに、私はその枯れはじめた菊を美しいと思ったのだ。いまこの歳になって初めて。
掲句はとくに植物を特定してはいないが、枯れていく秋の草花を思わせる。庭の菊も芒もねこじゃらしも野辺の草も、命を使い尽くしてすっかり軽くなり風に吹かれている。その最後の姿を美しいと感じながら、自身の生を重ね合わせる。上中下の境界を越えて枯れていく身としての思いがほとばしる。「からうじて」という含羞が、晩年を荘厳する。
 北海道の川で産卵を終えた鮭たちが、きらめくような冬の川面に枯れ果てた銀色の身体を横たえて、鳥たちがついばむのにまかせていた。テレビでみたその光景は厳粛すぎていまの私には美しいということが私にはできなかったが、そこからやってきてそこへ帰っていく、そんな懐かし場所から俳句はってくるのかもしれないと思った。
掲句は第三句集『夢殻』の最後の一句と呼応しているだろう。

  鶴来るか夕空美しくしてゐる

 ここから十年を経て、径子は美しい夕空に追いついたのだ。
晩秋、一年ぶりに訪れた径子の墓は小鳥たちのさえずりが湧き立つようだった。帰りがけに不死男の句碑の前を通った。

  けふありて銀河をくぐりわかれけり  不死男

 バス停の前で椿の実を拾ってポケットに入れた。


(『らん 72号』16.1.10)
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雨の樹のほうへ 33

夏痩に柱やさしく匂ふなり (『鶸』)

 「テーマ特集・詩の原郷へ」で中尾壽美子を取り上げることになった。同人各自の壽美子俳句への思いに触れる絶好の機会となってうれしい。私は径子の連載をつづけながら、いつも壽美子のことが念頭を離れなかった。というのも、私が九〇年に「琴座」に投句を始めた直接のきっかけは中尾壽美子だったからだ。江里昭彦氏が図書新聞の俳句時評「陶然たる美の水脈」(九〇年三月二四日号)でとり上げていた壽美子の俳句に驚き、「琴座」の二月号が前年に亡くなった彼女の追悼号を組んでいることを知って琴座を取り寄せたのだった。
 久々に中尾壽美子追悼号(九〇年二月456号)を開いてみる。私の俳句はここから始まったのだなと改めて感じるとともに、取り寄せた当時、径子の追悼文に吸い寄せられたことを思い出した。最後の入院から死にいたる経緯を壽美子からの来信や残された病床ノートから抜粋して綴られた文章は、径子と壽美子のそれまでの交流を眼前させて余りある。追悼文は「中尾壽美子はもう居ない。然し私は花の『老虎灘』をあなたの分身として呉々も愛してやまない」と締めくくられている。「花の」という形容には、径子の熱い涙がこもっているようだ。
 「氷海」が終刊となってのち、径子と壽美子が一投句者として「琴座」に投句しはじめたとき、二人でどんなことを語り合ったのだったろうか。二人の俳句は凝集度がまったく異なり、言葉や修辞へのアプローチも違っているのに、耕衣に師事することでそれぞれの句に「コク」が深まったことは紛れもない。この「コク」は魂の身体性とでもいうべきものだろうか。
 掲句は径子の「氷海」時代の作品だが、壽美子にはその後日談とでもいうべき、こんな作品がある。

  家中の柱も落葉しつくしぬ    『老虎灘』

 二人が時間を超えて共鳴し合っているようだ。
 径子は花の『老虎灘』を深く愛しつつも、「陶然たる美の水脈」を横目で見ながら人界を野川のように深々とした哀感とともに流れ下っていった。きっかけは壽美子だったが、気がつけば私は径子の俳句世界にどんどん引きつけられていったのだった。

(『らん 71号』15.10.10)
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雨の樹のほうへ 32

弥勒さま春の暮とぞ思ふなり   (『夢殻』)

 五月、大学時代の友人の息子の結婚式に招かれて神戸に出かけた。当人たちがすべて仕切ったという心温まる結婚式で、離婚当時二歳だった息子を一人で育ててきた彼女は心底うれしそうだった。
その夜は京都に一泊、翌朝、太秦にある広隆寺を訪ねた。清水径子の第三句集『夢殻』のあとがきに登場する弥勒さまにやっと会うことができた。
 径子は次のように記している。

 「その六月の琴座新緑句会、楽しさもあって心がはずみ、翌日は広隆寺の弥勒菩薩に詣ずることが出来た。京都も右京区が少し不便なことにかこつけて、この弥勒さまにはこの日が初見であった。薄暗い堂内、眼前三尺のこの弥勒菩薩のお姿のそれは、私にとって慕情であり、憧憬であり、悲愁であり、歓びであった。それにもかかわらず、現にそこにある弥勒さまは、漂泊の旅からいま帰ってきて、ただ『そこにある』と言ったようなしづかな印象であった。」

 そして、このようにつづく。

 「内に何物かを秘めながらしづかに『そこにある』というのは俳句ではないのか。そんな考えがちらっと通りすぎ、そして閉館の時間が迫っていた。この時、何かに誘われるように句集を出そうという思いが高まった。」

 その六月とは平成五年、径子は八二歳だった。『夢殻』刊行は翌年の一月、第二句集『哀湖』から十年の歳月が流れていた。「内に何物かを秘めながらしづかに『そこにある』」……まさに径子俳句ではないか。
 掲句の隣には「春深し鳥のそら音をわれはしぬ」の一句が寄り添うように置かれている。径子の魂が小鳥となって弥勒菩薩のあのやわらかく結ばれた印のあたりにとまっているような気がした。静かな時間がすぎ、外に出ると満開のつつじと細かい若葉の重なり合った楓の新緑が眩しかった。
 嵐電、地下鉄を乗り継ぎ、JR湖西線で堅田へ向かう。琵琶湖畔を歩くと、湖に浮かぶ浮御堂が見えてきた。芭蕉の「鎖(じやう)あけて月さし入れよ浮御堂」は俳句という器のやさしさを現しているのかも知れないと思う。芭蕉の眠る義仲寺へ向かう車窓からは、五月の琵琶湖が明るく光って見えていた。


(「らん 70号」15.7.10)
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