記憶の海へ

――皆川燈・俳句Site
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雨の樹のほうへ 39

俤のまた吹きすさぶ芍薬忌 (『雨の樹』)

 私自身は忌日季語を織り込んだ俳句をつくったことあまりないが、忌日が季語として歳時記に取り込まれたのはいつごろからなのだろうか。島田牙城氏は「週刊俳句」(2013.12.1)に寄せた「『忌』とは何か」で、忌日が季語として定着していったのは、子規の死後、虚子らその仲間たちが毎年、命日に子規を偲ぶ句を詠みつぎ「子規忌」という季語が生まれたことが発端ではないかと述べている。当初は直接面識のある敬愛する人の忌日で句を詠むことだっただろうが、それはやがて芭蕉忌や鬼貫忌、太宰忌のように、過去の文学者を偲ぶよすがとして句に取り込まれるようになっていったのだろう。芭蕉忌を時雨忌、太宰忌を桜桃忌というように、別名を持つ忌日もある。亡くなった季節の季語が付与されたネーミングは、色濃くその日を印象づける。
 「忌」という言葉を俳句でどう生かすかだが、あらかじめ歳時記に収められた忌日季語とは別に、自身の俳句の中でどうしても詠みたい死者、あるいは出来事を自身で悼み、また思い返し、再び思いを新たにする縁として忌を創造すればいいのはないだろうか。
 そのいい例が掲句ではないかと思う。「芍薬忌」は歳時記には載っていない。実は他日、月犬氏から掲句の「芍薬忌」は誰の句か知っているかと聞かれて口ごもってしまった。そのときまで漠然と「芍薬」という花自身の忌と思っていたのだ。しかし俤である。芍薬である。これは、径子に縁のある美しい女性の忌にちがいない。
 思い当たる俳人の忌日を調べてみた。中尾壽美子が亡くなったのは一〇月だから対象外。三橋鷹女の命日は四月七日、多佳子の命日は五月二九日。季語の芍薬は初夏に分類されているが、四月では早すぎる。華やかなイメージからも多佳子にちがいない。多佳子は不死男や三鬼ともに誓子の「天狼」を支えた中心メンバーである。径子は昭和二四年、姉、阿喜の夫である不死男の「氷海」創刊を契機に俳句を始める。全句集の自筆年譜によれば、昭和二六年の項に「名古屋の『天狼』三周年記念大会に出席。会場で加藤かけい先生、帰りの車中で永田耕衣、西東三鬼の両先生と同席したのも何かの機縁であろう。同夜、橋本多佳子先生邸に一泊、橋本美代子さん、津田清子さんを交えての歓談忘れ難い」と記されている。昭和二六年、径子四十歳、多佳子五二歳。「また吹きすさぶ」に出会いと歳月への哀惜がにじむ。

(『らん 77号』17.4.10) 
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雨の樹のほうへ 38

最鳥渡る衣縫ふ鳥も居りぬべし (『夢殻』)

 昨年の一月から四ヵ月間、吉祥寺の着付け教室に通った。着物はほとんど持っていないし、母も着物を着る人ではなかったのだが、私はずっと着物に心惹かれてきた。まとうと全身がすっぽり覆われてはっとするような変化が起こる。襟の重なり具合、帯と帯揚げや帯締めの色の響き合い……改まった席に着ていく余所行きではなく、日常的に普段着として着物暮らしをしてみたかった。四ヵ月後、やっと怖がらずに着物や帯にさわれるようになった。それだけでもうれしい。着付け教室へと背中を押してくれた友人が亡くなったお母さんの残した着物や帯を、会社の後輩は亡くなった伯母さんの着物を体型が似ているからとプレゼントしてくれた。着付けを始めたと報告したら、田舎の叔母からも着てくれたらうれしいと着物と帯が送られてきた。はるかな母系が滔々と押し寄せてきて、さわさわと私を包むようだ。
 径子の俳句に着物にまつわるものはあるだろうかと句集を繰っていて改めて出会い直したのが、七四号の本欄で取り上げた「淋しき鳥春着一枚干しにけり」(『哀湖』)である。そのときは「春着」を漠然と春に着る服と思い込んでいたのだが、ふと歳時記を引いてみて驚いた。「春着」は新年の季語で「正月に着る晴れ着のこと」とあるではないか(私が思っていた春の服は「春服」という季語として控えていた)。例句もたっぷり並んでいる。晴れがましい句やほほえましい句が並ぶのに引きかえ、径子の春着のなんというはるけさ。春着は径子の全身を包み込んで新年の無聊を一日覆い隠してくれた。帰りついて脱いだ着物を吊り下げて風を通す。
 そのとき、何もかも脱ぎ捨ててすっかり軽くなった身体は、もはや一羽の鳥のようだ。
 この「淋しき鳥」は、径子の自画像としてさまざまな変奏曲を奏でていった。掲句の「衣縫ふ鳥」を書いたとき、径子の膝の上にはいつまでも縫い上がらない幻想の絹の袷が広げられていたのではないだろうか。
 皮切りは第一句集『鶸』に登場する「寒凪やはるかな鳥のやうにひとり」だったかもしれない。それは「淋しき鳥」を経て、『夢殻』所収の、掲句や「板の間を飛べない鳥としてきさらぎ」「春深し鳥のそら音をわれはしぬ」へとリレーされていった。
 着物を着たり脱いだりしていると、私も淋しい鳥の末裔のように思われてくる。遅まきの着物との出会いが径子との距離を近づけてくれた。


(『らん 76号』17.1.10)
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雨の樹のほうへ 37

糞ころがし笑つて居れぬ手を貸しぬ (『雨の樹』)

 最近、正津勉の『乞食路通』を読んだ。この本は路通と芭蕉の魂の通交を描くものだが、私は路通を清水径子の一文によって知った。「らん」五号に掲載されたもので、琵琶湖畔での芭蕉と路通の出会いが、物語風につづられた一風変わったエッセイだ。路通は蕉門人に嫌われ、芭蕉のもとを去っていくが、「気になる人である」と一文は結ばれている。
 私にとっても、それ以来路通は気になる存在だったが、ときどきふと思い出すのみで時間が流れた。『乞食路通』との出会いは径子との再会のように思われた。この本の副題は「風狂の俳諧師」である。「風狂」とは、辞書によれば、「風雅に徹すること」「常軌を逸すること」とある。では風雅とは何かというと、「詩歌・文章の道。文芸」、また「蕉門で、俳諧を言う」とある。なにか堂々巡りの感があるが、煎じ詰めれば、風雅=俳諧に徹するとは、常軌を逸脱する、すなわち世間の規範の外に出るとでもいうことになるだろうか。芭蕉は何度も旅に出たが、さまざまなしがらみを断ち切れず、ついに風狂を生ききれなかった。根っからのホームレス、乞食坊主の路通の人生は風狂そのものだったと正津勉は語る。
 径子はさきの文章で路通の一句、

  鳥共も寝入つてゐるか余呉の海

を引いている。径子はこの句が好きだったにちがいない。風狂の俳諧師とは、自然に共振する詩人である。動物や草木に同類として心を寄せることが自然にできてしまう人である。どちらかと言えば、人よりも自然の生き物のほうが好きな人たちかもしれない。
掲句を初めて句会で目にしたとき、「糞ころがし」に驚き、「手を貸しぬ」に驚いた。そういえば径子にはこんな句もあった。

  檻の狸とまんじゆう頒つ老いたれば  『鶸』
 
 径子は風狂などどこ吹く風だったかもしれないが、これらの句を見ると、風狂の俳諧師、路通と俳句の心は通底していたように思われる。石段の上の、雲に乗っかったような可愛らしい小さな家を舟として、一人、雲海を旅していたのかもしれない。

(『らん 75号』16.10.10)
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雨の樹のほうへ 36

桃のスープ人はやさしきことをする (『夢殻』)

 送っていただいた「鬣」五八号の林桂氏の追悼文で、昨年一二月に阿部鬼九男氏が亡くなられたことを知った。「らん」三二号の径子の追悼特集を開き、寄せていただいた阿部氏の文章を久々に再読した。『まるでシャドーワークのような』というタイトルはいまも新鮮に迫ってくる。「身辺を、はらりと払うと、それが俳句になった。かといって、境涯俳句なんてもんじゃあない。(略)誤解をおそれずにいうなら、貴重なシャドーワークのような世界を俳句のなかで示してきた人のようにも思う」と氏は述べる。
「シャドーワーク」はイリイチの造語で家事労働など暮らしに不可欠欠でありながら報酬を受けない労働をさすと辞書にはあるが、ここで言うシャドーワークのような世界とは、実生活に張り付いている影法師のような、虚というよりはもう少し人間くさい有情の世界をさすのではないだろうか。姿は見えないがまぎれもなくそばにいる生き物の気配や死者たちの話し声、ものたちのもらすため息……私たちの暮らしの背後にたしかに存在する世界を繊細にたぐりよせる径子の手さばきが阿部氏には見えていたのだろう。
 阿部氏は三鬼や不死男と親交が深かったようなので、径子とのつながりもそこから生まれたものではないかと思うが、詳細はわからない。
 この一文は、「ところで、句集中に、ぼくのことを扱って下さった句もあるが、それはヒミツ、そっと大切に保管中だ」と締めくくられている。実は掲句がその一句である。大切なヒミツを明らかにすることを、きっと氏は許してくださるだろう。阿部氏は料理上手で、氏のお手製の桃のスープをご馳走になったことがあったのだそうだ。それはいつのことだったのか、どんな味だったのか、ちゃんと聞いておけばよかっと悔やまれる。
 一度だけ阿部氏にお会いした。たしか救仁郷由美子さんに連れられて鳴戸さんらと数名で径子宅の句会の帰りに阿部氏のお宅に押し掛けたのだったと思う。高階のベランダの向こうに夜景が広がり、東京タワーがよく見えた。居間の壁に重信の「明日は/胸に咲く/血の華の/よひどれし/蕾 かな」の扁額がかかっていた。近くの中華料理店でご馳走になったとき、阿部氏が香菜の一皿を追加注文されたのが忘れがたい。二〇年以上前のことである。

(『らん 74号』16.7.10)
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雨の樹のほうへ 35

淋しき鳥春着一枚干しにけり (『雨の樹』)

 掲句は清水径子の第二句集『哀湖』巻頭の一句である。『哀湖』は一九八一(昭和五六)年、俳句研究新社より刊行された。あとがきの最後に、当時「俳句研究」の編集長だった高柳重信への謝辞が述べられているから、句集刊行にあたって、二人に何らかの接触があったことはまちがいないだろう。
 ところで、この句集は、制作年順に四章立てになっていて、各章のタイトルは順に「晴」「雨」「霜」「雪」と名づけられている。シンプルで魅力的なタイトルの付け方だなと思っていたが、最近、『高柳重信の一〇〇句を読む』(澤好摩著、飯塚書店刊)を読んでいて、「おやっ」と思った。重信『「罪囚植民地』の章立てが、「晴」「曇」「雨」「風」「雪」であることが記されていたからだ。
『罪囚植民地』巻頭の「電柱の/キの字の/平野/灯ともし頃」は、私には特別の一句である。二十年ほど前、らんの仲間で印旛沼に出かけたことがあった。そのとき、帰りの車窓から田園風景を眺めていた径子が、ふっとこの句をつぶやいて、重信の俳句であることを教えてくれたのである。重信にそのような句があることを知らなかった私は、「キの字」の強烈さを脳裏に刻みつけたのだった。
 澤氏は一〇〇句の中で、どのようにこの句を採り上げているだろうかと前出の書をひもといたのであるが、これまで『罪囚植民地』の章立てについてはうっかり見逃していた。
不死男も耕衣も重信とは浅からぬ因縁があったことを思えば、『哀湖』に重信の深いまなざしが注がれていて何の不思議もない。
 ―径子さん、『哀湖』とはいいタイトルですね。
 ―哀湖は私だけに見える湖なの。愛や死という人間の哀歓を底に沈めて深く紺を湛えた湖。それはどこかに永遠にあるの。
 ―僕は『罪囚植民地』を編んだとき、人が火のごとく人の心を焼くなら、氷のように人の心を焼きたいと思ったんです。いささか涙にうるみすぎた節々がありますがね。そこで章立てはいっそ、シンプルに刻印しようと思ったんですよ。
 ―なるほど、では『哀湖』の章立ては罪囚植民地からいただこうかしら。
 七〇歳の径子と五八歳の重信にこんなやりとりがあったのでは。二人の句集のあとがきから想像して私は一人楽しんだ。

(『らん 73号』16.4.10)
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雨の樹のほうへ 34

枯れはじまる頃からうじて美し (『雨の樹』)

 清水径子が二〇〇五年十月に亡くなってから、全句集をひもときつつ一句を鑑賞して今号で三四回を数える。径子の俳句そのものともいえる、雨粒をたっぷり湛えた〈雨の樹〉のほうへと少しずつ歩をすすめてきたが、どれだけ近づけただろうか。
最後の句集となった『雨の樹』を出したとき、径子は九十歳となっていた。掲句を、当時私は最晩年にたたずむ径子がふともらしたつぶやきのようにとらえていた。「からうじて美し」にこめた径子の万感の思いを少しも汲み取っ
ていなかったと思う。
 十一月の冷たい雨の降る午後だった。家に帰る途中でブロック塀からはみ出すようにして冬菊が咲いていた。臙脂色の花はもう枯れかかっていたが、雨に濡れた菊ははっとするほど美しかった。そのとき、掲句が頭をよぎった。そうなのだ。菊はいつだって冬になれば枯れて、そんな風情を見せていたにちがいない。なのに、私はその枯れはじめた菊を美しいと思ったのだ。いまこの歳になって初めて。
掲句はとくに植物を特定してはいないが、枯れていく秋の草花を思わせる。庭の菊も芒もねこじゃらしも野辺の草も、命を使い尽くしてすっかり軽くなり風に吹かれている。その最後の姿を美しいと感じながら、自身の生を重ね合わせる。上中下の境界を越えて枯れていく身としての思いがほとばしる。「からうじて」という含羞が、晩年を荘厳する。
 北海道の川で産卵を終えた鮭たちが、きらめくような冬の川面に枯れ果てた銀色の身体を横たえて、鳥たちがついばむのにまかせていた。テレビでみたその光景は厳粛すぎていまの私には美しいということが私にはできなかったが、そこからやってきてそこへ帰っていく、そんな懐かし場所から俳句はってくるのかもしれないと思った。
掲句は第三句集『夢殻』の最後の一句と呼応しているだろう。

  鶴来るか夕空美しくしてゐる

 ここから十年を経て、径子は美しい夕空に追いついたのだ。
晩秋、一年ぶりに訪れた径子の墓は小鳥たちのさえずりが湧き立つようだった。帰りがけに不死男の句碑の前を通った。

  けふありて銀河をくぐりわかれけり  不死男

 バス停の前で椿の実を拾ってポケットに入れた。


(『らん 72号』16.1.10)
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雨の樹のほうへ 33

夏痩に柱やさしく匂ふなり (『鶸』)

 「テーマ特集・詩の原郷へ」で中尾壽美子を取り上げることになった。同人各自の壽美子俳句への思いに触れる絶好の機会となってうれしい。私は径子の連載をつづけながら、いつも壽美子のことが念頭を離れなかった。というのも、私が九〇年に「琴座」に投句を始めた直接のきっかけは中尾壽美子だったからだ。江里昭彦氏が図書新聞の俳句時評「陶然たる美の水脈」(九〇年三月二四日号)でとり上げていた壽美子の俳句に驚き、「琴座」の二月号が前年に亡くなった彼女の追悼号を組んでいることを知って琴座を取り寄せたのだった。
 久々に中尾壽美子追悼号(九〇年二月456号)を開いてみる。私の俳句はここから始まったのだなと改めて感じるとともに、取り寄せた当時、径子の追悼文に吸い寄せられたことを思い出した。最後の入院から死にいたる経緯を壽美子からの来信や残された病床ノートから抜粋して綴られた文章は、径子と壽美子のそれまでの交流を眼前させて余りある。追悼文は「中尾壽美子はもう居ない。然し私は花の『老虎灘』をあなたの分身として呉々も愛してやまない」と締めくくられている。「花の」という形容には、径子の熱い涙がこもっているようだ。
 「氷海」が終刊となってのち、径子と壽美子が一投句者として「琴座」に投句しはじめたとき、二人でどんなことを語り合ったのだったろうか。二人の俳句は凝集度がまったく異なり、言葉や修辞へのアプローチも違っているのに、耕衣に師事することでそれぞれの句に「コク」が深まったことは紛れもない。この「コク」は魂の身体性とでもいうべきものだろうか。
 掲句は径子の「氷海」時代の作品だが、壽美子にはその後日談とでもいうべき、こんな作品がある。

  家中の柱も落葉しつくしぬ    『老虎灘』

 二人が時間を超えて共鳴し合っているようだ。
 径子は花の『老虎灘』を深く愛しつつも、「陶然たる美の水脈」を横目で見ながら人界を野川のように深々とした哀感とともに流れ下っていった。きっかけは壽美子だったが、気がつけば私は径子の俳句世界にどんどん引きつけられていったのだった。

(『らん 71号』15.10.10)
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雨の樹のほうへ 32

弥勒さま春の暮とぞ思ふなり   (『夢殻』)

 五月、大学時代の友人の息子の結婚式に招かれて神戸に出かけた。当人たちがすべて仕切ったという心温まる結婚式で、離婚当時二歳だった息子を一人で育ててきた彼女は心底うれしそうだった。
その夜は京都に一泊、翌朝、太秦にある広隆寺を訪ねた。清水径子の第三句集『夢殻』のあとがきに登場する弥勒さまにやっと会うことができた。
 径子は次のように記している。

 「その六月の琴座新緑句会、楽しさもあって心がはずみ、翌日は広隆寺の弥勒菩薩に詣ずることが出来た。京都も右京区が少し不便なことにかこつけて、この弥勒さまにはこの日が初見であった。薄暗い堂内、眼前三尺のこの弥勒菩薩のお姿のそれは、私にとって慕情であり、憧憬であり、悲愁であり、歓びであった。それにもかかわらず、現にそこにある弥勒さまは、漂泊の旅からいま帰ってきて、ただ『そこにある』と言ったようなしづかな印象であった。」

 そして、このようにつづく。

 「内に何物かを秘めながらしづかに『そこにある』というのは俳句ではないのか。そんな考えがちらっと通りすぎ、そして閉館の時間が迫っていた。この時、何かに誘われるように句集を出そうという思いが高まった。」

 その六月とは平成五年、径子は八二歳だった。『夢殻』刊行は翌年の一月、第二句集『哀湖』から十年の歳月が流れていた。「内に何物かを秘めながらしづかに『そこにある』」……まさに径子俳句ではないか。
 掲句の隣には「春深し鳥のそら音をわれはしぬ」の一句が寄り添うように置かれている。径子の魂が小鳥となって弥勒菩薩のあのやわらかく結ばれた印のあたりにとまっているような気がした。静かな時間がすぎ、外に出ると満開のつつじと細かい若葉の重なり合った楓の新緑が眩しかった。
 嵐電、地下鉄を乗り継ぎ、JR湖西線で堅田へ向かう。琵琶湖畔を歩くと、湖に浮かぶ浮御堂が見えてきた。芭蕉の「鎖(じやう)あけて月さし入れよ浮御堂」は俳句という器のやさしさを現しているのかも知れないと思う。芭蕉の眠る義仲寺へ向かう車窓からは、五月の琵琶湖が明るく光って見えていた。


(「らん 70号」15.7.10)
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雨の樹のほうへ 31

手を入れて野川の春をそそのかす   (『雨の樹』)

 退職して「毎日が日曜日」を満喫している。この満喫の大きな部分を占めるのが、日々の散策である。国分寺は起伏に富んだ地形だから、散歩コースに事欠かない。太古の多摩川が削った崖、国分寺崖線の湧水、武蔵国分寺跡の遺跡群、そしてJRの国分寺中央線駅北側に広大な敷地を擁する日立研究所を水源とする野川……今日はどこの道をたどろうかと悩むのが、また楽しい。
 野川は街の中をさまざまに表情を変えながら流れているので、野川が伴走してくれるコースについ足が向く。川の始まりが山奥ではなく、駅近くの研究所の敷地内というのも不思議である。名前も気に入っている。シンプルでいて、いかにも武蔵野をかろやかにかけぬけていく愛らしさを感じさせる。
 野川を眺めるたびに掲句を思い出す。春はひとしおである。野川は一般名詞の野辺の川のことだろうが、私は大好きな野川を径子が俳句に残してくれたと思うことにしている。この一句、野川の愛し方がすばらしい。水辺に降りたって流れに手をひたす。それだけのことなのに、とろりと濃厚な春の水から生まれたピチピチした命のかたまりを手のひらに感じているようにリアルだ。「野川の春」とすることで、いま野川に生まれた春がみずみずしい肉体性をもって立ち上がってくる。擬人化というレトリックとは別の位相で、春のいのちと遊ぶ作者がいる。
 掲句を収めた『雨の樹』は径子九〇歳の句集で、翌二〇〇二年第一七回詩歌文学館賞を受賞した。句集のあとがきには「老いという体力の減退はやむを得ぬ事ながら、この頃しきりに『いのち』という言葉に心惹かれるようになった。『いのち』こそ、森羅万象、動植物に等しく与えられた生の原動力であると思うからだ」と記されている。「いのち」という言葉に私も立ち止まる。
 今号のらん詠のテーマはくしくも「命」、出題は五十嵐進である。先ごろ「らん」に連載中の「農をつづけながら」も収めた『雪を耕す』を上梓した。3・11以降の日々を福島から発信しつづける五十嵐が選んだ「命」という言葉が、俳句を書く私に深く突き刺さる。

(『らん 69号』15.4.10)
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雨の樹のほうへ 30

噴水のあたり父とはいかな味     (『夢殻』)

 昨年十月に義父が九十九歳でなくなった。百歳の誕生日のちょうど一ヵ月前だった。義父の生れた秋田市郊外の旧雄和町女米木は、石井露月が医業のかたわら、村の青年たちに俳句を手ほどきしていた村でもある。義父は少年のころ、露月の句会の様子を垣間見たことがあったそうだ。俳号を残花といい、若いころは俳句をつくっていたらしい。雑事にまぎれて義父の俳句をたずねることもなく歳月がすぎた。「冬囲すむと便りや訪ねたき」の一句を知るのみであることが悔やまれる。義父は警察官だったが、書画骨董を愛し、露月の色紙を季節ごとに掛け替えて楽しむ洒脱な人だった。
 径子は六歳のときに父を亡くした。享年四十。径子自筆年譜には「父は浄土宗の信仰厚く、出棺供養の『百羽の放鳥』は今も心に残る。わが抒情の原点はここにある思い」と記されている。掲句はそんなはるかな父を恋う一句である。翌年、母も三六歳で亡くなってしまう。秋元不死男は第一句集『鶸』の序において径子の個性を「嘆きの詩性」「知の果てにある嘆き」と記したが、径子の詩質に幼年時の父母との死別が影を落としていることはまちがいない。
 『鶸』に収められた父母の句は、

  梅林を亡き父ならば黒二重廻(とんび)
  虻がきて同じ水飲む父の墓
  亡母ゐる裾のさびしき昼寝ざめ
  母を継ぎ峡蕎麦は明け昏れの花

 第二句集『哀湖』に直接父母を詠った作品は見当たらないが、「うすうすと二人居て夕顔の種」はもしかしたら、記憶のほとりにたたずむ父母の事であったのかもしれないと思う。
そして、歳月の地層の中で濾過されたかのように、第三句集『夢殻』に掲句が現れるのだ。浄土宗の信仰厚かった若い父は、吹き上げる水の清冽さと落ちかかる水のまろやかさで、径子のかたわらに永遠の謎と懐かしさを湛えて立っている。

  あれは父あれも父かと雲の峰   『雨の樹』

 亡くなった家族の中で最も多く径子の俳句に登場するのは夭折した弟であるが、俳句の中の弟は、父の面影を捜す径子にとって、父への思慕をも引き受ける存在であったのかもしれない。

(『らん 68号』15.1.10)
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