記憶の海へ

――皆川燈・俳句Site
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火達磨の愛――矢田鏃第三句集『石鏃抄』を読む

 『石鏃抄』は、五十代から六十代にかけての十年の作品を収録した、『澎湃』『雨の灣』につづく矢田鏃の第三句集である。表紙のホームスパンをつなげたようなコラージュは、タイトルと相まって、世界への思慕をつづる矢田俳句そのもののように思える。
 矢田鏃は「世界」に対してずっと異和を感じて生きてきた人だと思う。本句集のあとがきで「そもそもの初めから、おかしな俳句やな、と社会でまともに働いている人から言われ続けて参りました」と綴っている。自分は「社会でまともに働いている人」とは違うということが言外に滲んでいる。「おかしな俳句」かもしれないけれども、耕衣は受け止めてくれた。矢田鏃は耕衣と出会うことで、世界に向かって自分の文体で語っていいのだという安堵と確信を得ていったのではないだろうか。それは生きることの肯定でもあった。俳句はその意味で矢田鏃のいのちであり呼吸である。
 「わたくしの内なるテーマは、命の大切さ、命から萌芽する〈愛〉の切実さについて自分の文体で書き続けることだと考えています」というあとがきの思いは、矢田鏃と俳句とのこうしたギリギリの関係を考えることなしに受け止めることはできないだろう。
 愛を書きたいのではない。「愛の切実さ」を書きたいのだ。愛は世界と折り合いをつけがたい自意識の岸辺で、狂おしく希求されているものであり、安らぎとは対極にある。

  紅白梅二輪一輪見えゐたり
  花は過ぐ上下四辺の遥かなり
  蛻(もぬけ)残し夏の修羅へとたましひは
  夏の北メリーゴーラウンドまはる

 世界は手の届きそうで届かないところにある。対岸には溢れる愛、「紅白梅」や「メリーゴーラウンド」が見えているのだが。たましいは夏の修羅へと脱け出ていったが、まだ旅の途上である。

  優しさは蟹掴むよりてごわくて
  人恋はば臍のおくまで秋の声
  空蝉の全重量を受け止めて
  夏に遺すいつぽんの線木炭画

 愛は切実であればあるほど「てごわい」ものだ。秋の真只中で人を恋う。しかし「空蝉の全重量」を受け止めるのでは手遅れなのだ。木炭で描く「いつぽんの線」は暖かくて懐かしいが、指ではじけば粉となってほろほろと落ちていく。
 それでも愛は世界に溢れている。そのことをひしひしと感じる。

  春の塔玉と観ずる握り飯
  梅の風うるほす君の髪みどり
  人生を詠ふ葱坊主をもつて
  たとふれば削り氷の君である

 血脈という愛の重層性が世界を深くする。

  星月夜手を天秤の上に乗す
  人形よりしずかな母の咀嚼音
  悲哀物質ゆゑよこたはる薄氷
  こんこんと眠る白昼冬菜青し

 そして、ようやく向こう岸に渡りつく。

  月に座る家族の原型やこれは
  少年や愛で火達磨の晩夏よ
  頂や父は薄をめがけ駈けた
  赤い山いのちは愛の暗渠かな

 「これ」だったのだ。月下の家族は「愛で火達磨」の少年であり、頂をめがけて駈ける「父」。この直截すぎる、性急すぎるまでの愛。いのちを「愛の暗渠」と見做す地点へ矢田鏃はようやく抜け出た。
 
  一木の彫られすぎたる天の河

 たとえ突き抜けてしまうとしても鏃で深く深く彫っていく。この彫られ過ぎた天の河こそ、矢田俳句の愛の姿である。

(『らん 75号』16.10.10)


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