記憶の海へ

――皆川燈・俳句Site
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【書評】正津 勉 著『乞食路通―風狂の俳諧師』              ―「図書新聞」16.11.5号

 芭蕉の弟子、路通の生涯はほとんど不明であるという。本書はわずかに残っている資料と路通の俳句を手掛かりに、芭蕉と路通の心の通交に迫ろうとする一書である。
私が路通の名を記憶にとどめたのは、私の所属する俳句同人誌「らん」に、当時八十代だった中心メンバーの清水径子が載せた物語風の一文だった。「野ざらし」の旅の途中で芭蕉が乞食坊主、路通とバッタリ出会う。径子は「芭蕉はこの男に風雅を見た。『いちどわが庵に来なされよ』。この男が〈鳥共も寝入つてゐるか余呉の海〉のあの路通である」と綴っていく。一文の末尾は「芭蕉の愛顧にもかかわらず、蕉門人には嫌われ飄々と姿を消す。気になる人である」と結ばれていた。
 以来、路通は私にとっても気になる存在だったが、本書を読み進むにつれて、路通はくっきりとした存在として立ち現われてきた。
 路通の命名は芭蕉によるもので、奥の細道への旅では最初に同行を考えた門人であった。死の床で「なからん後路通が怠り努うらみなし。かならずしたしみ給へ」と言い置くほどの存在だった。
 それなのに、である。当代随一の知的集団とも言える芭蕉とその一門の人々が、仲間の一人である路通に対して差別としか言えないような、「いわれなき排除」を繰り返したのはなぜなのか。本書の眼目はその謎に迫ることでもある。
 おそらくその出自が影響しているのではないかと著者は推察する。
 路通の氏素性には諸説あるそうだ。「生没年? 二つ以上の姓名? 六つ以上の出生地? つまるところ生涯にわたってだが、なにしろやればやるほど迷宮入りするばかりという、よくわからない御仁なのである」と、論ずる著者がしょっぱなからお手上げ状態。「はっきりしているのは芭蕉に拾われたこと、そのとき乞食の態であったということのみ」。しかし、路傍の薦被り、路通と出会って、芭蕉は心動かされる。
 著者は後書で「素性、経歴、品行……。などなど諸点に問題があっても(略)ことその作品の評価について、まったくいかなる関係もあり得ない。そうであるはずが(略)差別として現れるのは、どういうかげんか」「そんなところに俳諧があるものか」と怒っている。
 路通は芭蕉の生前も死後もしばしば一句に芭蕉への思いをこめたと著者は看破している。 

  ぼのくぼに雁落かゝる霜夜かな  路通
  病雁の夜寒に落ちて旅寢哉    芭蕉

 たとえば、路通の芭蕉死後の右の一句は、芭蕉の名吟への時空を超えた挨拶ではないかと著者は記す。俳句を媒介とした二人の魂の会話に読者は引きずり込まれていく。
 当時の貴重な資料を、予断を交えずに丁寧に読み解き、著者と同郷、福井出身の水上勉に教えを乞い、同じく同郷の作家で俳人、多田裕計の『小説芭蕉』、明治・大正・昭和前期の英米詩壇で活躍した野口米次郎の『乞食路通』を地下水脈として援用しつつ、乞食路通の生涯に迫る。
 路通の生涯を辿りつつ、著者は「芭蕉と路通と。たとえれば両人は一枚の硬貨の裏表なのである。ほかでもない、路通は、芭蕉が生き得なかった風狂を生き貫かんとした、だからである。/しかし表なければ、むろん裏またなし。芭蕉あってこその、路通であったのだ」という感慨にいたる。
 著者は一昨年『忘れられた俳人 河東碧梧桐』も上梓されている。風狂の俳諧師や忘れられた俳人に着目するのは、彼等こそ、王道を疑いもなく歩いていく人々には見出し得ない俳句というポエジーの真髄に触れ得ていると確信するからだろう。芭蕉も乞食には成れなかった。
 帯文に爐弔乙曾媚畧篁伸瓩箸△襦つげ氏は、放浪の俳人、井上井月をモチーフにした『蒸発』で井月への共感を描いた。井月と路通には「どこかへ蒸発して流浪して生きていきたい……」そんな思いに重なり合うものがあるのかもしれない。つげ氏や著者にもまた。 
 風狂へのあこがれは、男のDNAに密かに仕組まれた、人生の突破口なのかもしれないと思った。

(作品社刊・16.8.10 四六判 248頁 本体2000円)
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