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【書評】『詩の旅』(現代俳句協会刊)を読む

 鳴戸奈菜が第八句集『文様』と前後して、四冊目となる文章集『詩の旅』を刊行した。
 「第一章 俳句における間」「第二章俳句と〈火〉」は、共立女子大学発行の「文学芸術」に発表されたもので『歳時記の経験』(二〇〇五年刊)にも収められているので、ここでは「第三章 近代女性俳句の出発」(初出一九九八年、共立女子大学『研究叢書』)と「第四章 俳句月評(初出二〇一四年一月〜十二月、「東京新聞」連載)、「第五章 詩の旅」(初出一九八七年〜一九九五年「琴座」連載)についてふれておきたい。
 第三章で取り上げているのは竹下しづの女である。しづの女の「短夜や乳ぜり泣く兒を須可捨焉乎(すてつちまをか)」はいま読んでも強烈なインパクトがある。鳴戸奈菜はこの句とともに「乳啣ます事にのみ我春ぞ行く」を引き、家庭婦人ではなくて職業を持った生活者としての視点をもった女性として注目する。しづの女は自らの俳句が台所俳句として括られることに満足できない一人だった。しづの女の著作『女流作家論』の中から引用されている「各自の體験に基礎づけて創造せる自己の歳時記を自ら創制せよ」という一文は今でも十分に説得力がある。しづの女は平塚雷鳥と生年がほぼ同じ。俳句を「ホトトギス」に投稿し始めた大正八年頃には「青鞜」は廃刊となっていたが、しづの女は手にとったことがあったのではないだろうかなどと想像が刺激される。
 第四章は「東京新聞」に二〇一四年一月〜十二月まで毎月連載された「俳句月評」である。俳句界を概観しつつも、3・11、フクシマ、戦争といった厳しい現実を射程に入れた俳句観が展開されている。
 第五章は本書の中では最も古く一九八七年から一九九五年の『琴座』終刊まで連載された「詩の旅」をまとめたものだが、私は最も愉しくこの章を読んだ。鳴戸奈菜の一句鑑賞はいつも肩の力が抜けていて面白いのだが、我家のような『琴座』での連載だけに、のびやかにその本領が発揮されているように思われる。俳句は詠むより読む方が楽しくおもしろいという鳴戸奈菜の面目躍如の文章群である。

(『らん 76号』17.1.10)
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