記憶の海へ

――皆川燈・俳句Site
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「茶化し」の行方――鳴戸奈菜第八句集『文様』を読む

 「俳句は茶化しの品位に於て自他を空ずるエロス、即ち自娯自作の呪文に過ぎない」……耕衣が鳴戸奈菜の第二句集『天然』の跋文で述べているこの一文を読んで以来、「茶化し」は鳴戸奈菜の俳句骨法の根幹をなすのではないかと思ってきた。諧謔とはちょっと違う。そこにはユーモラスなエロスとでも言いたいようなお茶目な奔放さがある。鳴戸奈菜が一貫してテーマとしてきた「非在世界の可視化」は、彼女のこうした言葉に対する奔放さのゆえに独自の世界を切り開くことに成功してきたと言っていい。
 鳴戸奈菜の「茶化し」は、本句集においては「只事への奇襲」に矛先を転じたように思われる。

  箱庭に大きな物は無かりけり
  昼のあと夕暮れとなり盆踊り
  首の上に顔あり薄く初化粧

 あまりにも当たり前すぎて詩のテーマには到底成り得ないと思われる事象である。しかし、彼女が定型に掬い取ると、時空に不可思議な歪みが生じる。思わず吹き出しながら、ふと現実が遠のいていくような怖さが背後から忍び寄る。

  命得てはじまる死のこと桜かな
  蟻も我も宇宙に生まれ死ぬ予定

 生死もこのようにあっけらかんと言い放たれると明るい神の審判のようではないか。「生」のいとおしさへの奈菜流の「茶化し」であろう。
 同じく耕衣文中にある「自己客観の自己」はまた、奈菜俳句の「茶化し」の長年のモチーフである。

  飼犬の昼寝の夢にわたくしか
  我かも知れぬ彼岸花見ておるは

 「私」にこだわり弄う手さばきは奈菜流「茶化し」の真骨頂かもしれない。 

  空棺が届けらる白椿の庭
  口にして寂しき言の葉紅葉す

 「非在世界の可視化」というシュールな言葉の刃は本句集でもこのように健在である。ここからさらに「茶化し」「自他を空ずるエロス」が新たなプリズムで立ち現われるのではないか。本句集はそんな予感に満ちている。

(『らん 76号』17.1.10)

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